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知って得するお茶ワールド

信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

お茶の飲み方(8)

「喫茶養生記」を書いた栄西が、茶の種子を中国から持ち帰って、日本の各地に茶産地を広げた。京都の高山寺で有名な栂尾の茶が本茶として有り難がられた。宇治、醍醐、奈良、伊勢等々の茶は非茶と呼ばれた。

茶は宋から伝わったように片茶(固形型)と散茶(葉茶)があった。我が国では、今日の日本茶の製法と言える蒸し茶(散茶)が多く用いられた。蒸し茶は今日で言う煎茶と抹茶に分けられる。明では炒って造る葉茶が出現しているが日本ではあまり受け入れられなかったようだ。

室町初期の学僧虎関の著と言われる「異制庭訓往来」には、茶筅、茶巾、茶杓等の茶道具の名が出てくるから、当時、既に、今日で言う抹茶を用いる喫茶法が行われていたことが判る。

喫茶は僧侶、貴族、武士を中心とした上流階層が愛用していた。本シリーズの3月号に紹介した鎌倉時代の僧無住の著作「沙石集」(1283年)に、"牛飼いは僧侶が茶を飲むを見て、如何なる薬か"と問うている。当時、庶民は、まだ、喫茶と殆ど無縁で、知らなかったようだ。しかし、1403年の東大寺百合文書では、東大寺南大門前で一服一銭の立売茶が出現していることから、一般に普及していたことになる。今日で言う煎茶、番茶のような安価の茶葉を煎じて飲んでいたようだ。

僧侶を中心とした喫茶は眠気さまし等の薬効性と生活規範となる茶礼に重きがあった。精神性、超世俗性に発展していったと思われる。喫茶の場所として、寺の住職の居室である四畳半の「方丈」があった。これが茶の湯に於ける茶室の基本となったのだ。

一方、貴族や武士では社交性、趣味性に重きがあった。喫茶の場所としては、書院造りで会所の建物が用いられた。室町幕府六代将軍足利義教の建てた御所の記録が代表。今日、その様式は西本願寺飛雲閣に残る。私的な空間には炉(囲炉)があった。

また、「闘茶」と言う前述の本茶、非茶のブランドを当て合うゲームと酒宴を伴った賭博性を持った遊技が盛んだった。バサラ大名で知られる佐々木道誉がその代表として知られる。しかし、足利尊氏が幕府を開いた年に「建武式目」を発して、茶寄合等の群飲佚遊を禁制した。

こうした歴史背景を経て、今日の喫茶法の様式は形成されていったのだ。

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