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インターネット公開文化講座

文化講座

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シリーズ 分かりやすい「わび・さび」 日本美術をより深く理解するための一考察

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

村田珠光の美学 厳しさの美学へ

 前回は足利義政の銀閣寺の夜の美学と抽象性の芽生えについて書いた。それは夜と月の光、すなわち白黒の世界への感性の変化と精神性の高まりによる厳しさの表現に由来するのではないかと思う。
足利義政は応仁の乱のとき、近くに迫った戦乱には無関心で東山山荘、すなはち慈照寺銀閣にこもって芸術三昧にすごしたという。もはや父、義教を家来によって暗殺された義政にとって、彼らが将軍の命令をきかない以上、たとえ将軍職にあってもなすすべをもたなかったのであろう。将軍の権威が地に墜ちたということである。下克上の世に、実力ある者がのし上がる戦乱の世になったのである。
 ちょうどその頃、水墨画の天才である雪舟は京の応仁の戦乱を避けて山陰をまわっていた。わたしはその山陰を流れていたころ(文明11年・1479年)の雪舟が描いた肖像画の傑作「益田兼堯(ますだかねたか)像」(重要文化財)が好きだ。兼堯は島根県益田の第15代益田城主で、雪舟は彼の人格、品性を正確に描ききっている。「益田兼堯(ますだかねたか)像」の白黒の線描はすばらしい。やはり絵師の力量が問われるのが肖像画であろう。モデルの人物の人格、精神性を描けるか、それが人物画のすべてであろう。この「益田兼堯(ますだかねたか)像」と尾形光琳の「中村内蔵助(なかむらくらのすけ)像」、そして渡辺崋山の傑作「鷹見泉石像」がわたしは好きだ。絵師の性格はそれぞれ異なるが、芸術家である絵師が、優れた精神性をもった人間を描くということではこの3点は、日本の絵画史上白眉であると思う。

 雪舟が描いたとされる絵で有名なものは、やはり中国地方の大名・毛利家伝来の国宝、雪舟「四季山水図(山水長巻)」であろう。後に現代の横山大観が描いた国宝「生々流転」の原点の作品である。四季の移ろいが雪舟の筆でみごとに描き分けられている。またわたしは国宝「秋冬山水図」の冬の絵が好きだ。こうした絵を観ると、雪舟はやはり冬の絵を描くのが好きだったと思う。好きというより、描かねばすまない季節という存在であったのかもしれない。「冬」という季節に最も自分の心に合う精神性を感じていたのだろう。それは「厳しさ」だったかもしれない。名前からして「雪」がつく。そうした精神性の背景は雪舟の生い立ちから考えても、やはり「禅」であろう。水墨画の魅力は何といっても白黒の冬の絵だ。雪舟の「秋冬山水図」には、崖が逆に切り立っており、自然の現実的な景観としてはあり得ない厳しい線で描かれている。そこにこそこの絵の芸術性、魅力があるのだが、それは雪舟の観念の世界、すなはち形を本来の形から「くずす」作業に魅力があるからだ。抽象的な、観念的な絵画に近づいているといえる。
 白黒の絵画、雪舟の「破墨山水画」はつとに有名であるが、これも抽象性の絵画に近いものだ。こうしたいままでの細密画的芸術に飽き足らなくなった傾向、更に権力者にこびへつらわない人格の形成がこの時代の傾向として特徴づけられる。能を大成した世阿弥の強い信念、権力者ではなくなり銀閣にこもる義政の世界、雪舟の白黒の世界と線へのこだわり、村田珠光の新しい感性による好み、そして利休による茶道の大成が大きい。

 ここでは新たに村田珠光について考えてみよう。
 村田珠光は小さいころより奈良の浄土宗寺院称名寺に僧になるべく入れられたが、出家を嫌って上京した。彼は京三条に住んで茶の湯に親しみ、その後30歳頃に禅僧となり、臨済宗大徳寺派の一休宗純に参禅したという。ここに一休との出会いがある。一休禅師の反骨の精神を珠光が受け継いでいることが大事だ。印可の証として一休禅師から圜悟克勤(えんご こくごん、1063年から1135年。公案集で名高い『碧巌録』の作者。中国の宋代の禅僧)の墨蹟を授けられたといわれる。「茶禅一如」を体得し、内面の精神性の深化に精進する。能阿弥(のうあみ、応永4年1397年から文明3年1471年)から花や茶など、さまざまな「道」の目利きを学び、後に足利義政の知遇を得たことも極めて注目される。能阿弥により考えられた「会所の茶」という世界から能や連歌の影響を受け、さらにそこから禅的な世界観を反骨精神の代表ともいうべき一休宗純との関わりから学んだ。
 これまでに述べてきた世阿弥の能や室町の宮廷で流行った連歌からさらに一歩、精神的に深め、茶と禅の一体化、すなわち宮廷サロン的茶の世界から「茶禅一如」の精神にまで高めたのが村田珠光といえる。

 禅の世界は、ある意味で捨てる美学である。それは空也にはじまり、一遍に至る浄土系宗教の精神でもあり、仏教の基本精神でもあるが、禅の世界でも「捨てる精神」は重要である。高額な唐物茶道から禅の僧でも使える茶道の世界の確立に珠光が向かったとしても、それは反骨という精神をのぞいたとしても不思議なことではないだろう。無駄を捨てる。さらに捨てる心を捨てるといった一遍を思う。
 珠光の作り出した茶室は「南方録」によると4畳半といわれ、書院風の造りで、台子を点茶用の棚として客前に登場させたという。室町時代の将軍家を中心とする渡来品、すなわち天目茶碗や南宋の砧青磁茶碗などを最高の道具とする唐物好みの喫茶文化から、村田珠光は粗末な「珠光茶碗」を愛玩し、粗末な道具でも良しとする茶の湯を確立した。世にいう「わび茶」である。
ここでは「珠光茶碗」「珠光青磁」といわれる茶碗を考察してみよう。
 村田珠光が愛用した青磁茶碗は酸化焔焼成に近い焔で焼かれた茶碗である。本来青磁は還元焔焼成で焼くが、炎の調整を誤って酸素をやや多めに窯に入れて焼いてしまったといえる。そのため青磁の美しい青緑の色が出ないで、ベージュ色がかった薄いグリーンの色に仕上がってしまった。すなわち本来の青磁からみれば、焼き損じ作品ということになる。しかし、その作品に珠光は美しさを観たのである。それは今までにない新しい「美」の発見であった。


写真1


写真2


写真3


写真4


写真5

 わたしの持っているこの写真3から5の作品の産地は中国の南、現在の浙江省とされ、釉は黄褐色で、やや薄手に作られ、高台は南宋時代の面影を宿し、表面には猫掻文といわれる引っ掻き模様が胴から腰部分に縦方向に施され、内側にも草花文が線描きされているのが特徴である(写真4から5)。
 この茶碗には松尾流茶道の九代宗匠、松尾宗見の箱書きが付属しており、(写真1から2)「八重霞」と銘名されている。松尾宗見(半古齊)は大正6年10月に52歳で亡くなっている。桐箱は火災で炭化して焦げているが茶碗への影響は免れた。桐という素材の特性がうかがえる。

 室町時代後期から桃山時代に喫茶文化は庶民の間にまで広まっていったが、公家や武士らが催す茶会では高価な中国や朝鮮からの渡来品である「唐物道具」(特に義政の愛した道具や数寄者によって銘がつけられ愛玩された道具を「名物」などと呼んで珍重した)が多く用いられた。このように渡来品で最高級品である唐物を尊ぶ風潮に対し、珠光は粗製の中国陶磁器、「珠光青磁」と呼ばれる安価な青磁に美を見いだし、茶に使用した。こうしたことから村田珠光は「侘び茶」の創始者とされている。

 珠光の弟子、利休の師である武野紹鴎は珠光の「侘び茶」の世界を更に発展させ「枯れかじけ寒かれ」といった。これは連歌師である心敬の言葉から引用したもので、侘び茶の心をよく表現しているという。また武野紹鴎は平安時代の歌人、藤原定家の歌
「みわたせば 花ももみぢも なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮」
という歌を「わび」の心であるとした。これらのことについては次回に述べたい。


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