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シリーズ 分かりやすい「わび・さび」 日本美術をより深く理解するための一考察

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

猿投のやきものがはたした役割

 今回はさらに踏み込んで「わび・さび」の原点の一つを考えてみたい。愛知県瀬戸市に隣接した猿投山という629メートルの低い山があるが、その山の西南麓に「猿投」というやきものが9世紀末から10世紀初頭にかけて成立、発展した。今回は猿投のやきものを勉強しながら「わび・さび」について考えていきたい。


猿投作品を焼いた窯跡
(愛知県陶磁資料館内・骨董学院の生徒さんと見学している写真)

 まず猿投というやきものはどのようなやきものなのかについて勉強してみよう。
 前述の愛知県瀬戸市は陶磁器のふるさととして、東京でもやきもののことを「せともの」というくらいに有名である。その瀬戸市の市街地から少し東に行くと、もうそこは猿投山の麓である。というより瀬戸市そのものが猿投山の麓といってよいところである。その猿投山の西南麓から東名高速自動車道に広がる東郷町あたりまでの広域な場所が猿投焼きの産地とよばれる地域である。
 中国の越州窯の作品に触発されて制作されたといわれる猿投焼きにおける日本陶磁史の上で最大の功績は、なんといっても白い作品を作ろうとした意志と灰釉(かいゆう)の発見であろう。
 当時、唐の文化が流入して、白磁などの影響もあり貴族は今までの黒い須恵器より白いやきものを欲した。それに応えて愛知県猿投山の陶工たちが白い陶土を見つけたことも大きなやきものの発展につながった。しかしそれと同時に灰釉の発見も大きなものであった。
 灰の釉薬とはなんであろうか。実は灰の成分にはカルシウム、カリウム、リン、ナトリウム、マグネシウムなどのアルカリ性金属が多く含まれており、古来からの焼き畑農業において有効な肥料として知られているが、実はその成分のカリウム、カルシウム、ナトリウムは長石や石英などのケイ酸化合物を1240度以上の温度で溶かしてガラス化する特徴を持っており、その特徴が釉薬としての灰釉の誕生につながった。
 やきものを作るときに、薪を燃料として使用するが、その薪には赤松が一番頻繁に使われる。なぜ赤松が一番かというと、まずたくさん山にはえていて、身近な存在であり、それ故に昔は安価であった。それから燃焼させると、樹脂にヤニが多く含まれているからよく燃えること、それゆえに高温になること、さらに炎が長く、窯の隅々にまで炎が届くため大規模になりつつある窯の中でやきものを作るのにはきわめて都合がよかった。古い窯の中にも10メートルを超える大きさの窯が出現し、その手前に置かれた作品から奥に置かれた陶器まですべてを焼くには長い炎が必要となった。そうしたやきものを焼くための燃料としてのすべての条件を赤松は持っている。その赤松を焼成していると、その灰がやきものに降り積もるのであるが、その灰の中にはケイ酸が含まれているため1240度以上の温度になると溶けて、ガラスに変質する。それが溶けて流れたり、落ちたり、降り積もって溜まった。
 彼ら陶工はなぜガラス質がやきものにかかるのか不思議に思った。ところが中に頭のよい陶工がいて、ガラスが生まれるのは灰によると考えた。灰にしか原因がないことを確認したその陶工は、灰を集めて水で溶いてそれを作品に塗って焼いてみた。すると塗ったあとにきれいなガラス状の皮膜が形成された。それが釉薬の発見となった。これが日本で最初の灰の釉薬の発見であった。


猿投の3作品 中型、小型の皿と山杯

小型の皿の施釉の様子
たっぷり刷毛にふくまれた灰釉を左から右に塗ると、
出来上がった作品は左が濃く、右にゆくに従って薄くなることがわかる。

 しかしそれ以前に釉薬はなかったのかといえば、実はあったのである。唐三彩を摸倣した鉛釉のやきもの、「奈良三彩」がそれであるが、それは全く中国の摸倣であり、おそらく製造方法、原料もそのままを遣唐使船で中国から輸入して製造したことから、「発見」といえるほどのものではないというのが陶磁器研究者の見解であろう。したがって1世紀ほど後の灰釉が高温で硬く焼かれた日本初の釉薬ということになるのである。
 実はその前の段階は、やきもの史上、一般的には「須恵器」の時代とされ、まさに朝鮮半島伝来の、そのままの技術でたくさんの黒い作品が焼かれた。その多くは古墳の副葬品として制作され、技術も猿投につながるほど発展した。
 作品を観ると、その須恵器の肌にはキラリと光るものが見られることが多い。その須恵器に降りかかった灰が、1240度以上の高温で溶けてガラス化して流れたものである。それを一般的には「自然釉」とよんでいる。その自然釉の特徴は作品全体にガラス質である釉薬がかかっていることはなく、火前の高温になるところ、1240度を超える温度になるところだけに灰が溶けてガラス質がかかっている。それはまさに人間が意図しない釉の出現であり、それゆえにそれは自然の神が作りあげたものと考えられたのであろう。


灰釉に移行する前の猿投の自然釉の美しい長頸瓶

 大陸では、中国でも朝鮮でも、その先のヨーロッパでも、工芸というものは人間がパーフェクトに作りあげるもの、すなわち人間が管理、意図して考えた通りに作りあげる作品であるべきと考えてきた。自然にできるこうした自然釉は偶然の結果できたものであって、それはたとえ美しくても工芸としての価値は低くなると見るのが欧米、大陸の考え方であった。日本の古いやきものが海外のオークションで思ったより高く評価されない理由である。
 日本では縄文時代以来、自然が神々であり、我々の先祖の生活はそうした神々、八百万の神によって守られてきた。世界の四大文明も農業に依存した文明形態であったことから自然崇拝であったが、やがてエジプト、ギリシャなどでは合理的思考方法の発展から科学的、論理的にものごとを考えるようになった。
 日本はかつて食料豊かな温暖な島国であり、それが神々への崇敬を長く伝えた理由であり、仏教伝来以後も神が仏と同一化されて考えられたり、仏教に引き継がれて宗教的な影響が長く存続した理由であろう。すなわちやきものが焼かれる場合においても神がかかわるという概念が違和感なく人々に受け入れられたといえるのである。偶然的な出来上がり、それは火の神が作りあげたものと同じ意味をもつ。それが歪んでも、神の意志でそうなったと考える。ゆがみは温度管理や作品の厚さ薄さに原因することが多いが、それは神の意志でできると日本人は考えた。窯神神社や陶祖神社がいまだに九州有田磁器や瀬戸地方のやきもの制作者たちの礼拝の対象になっており、お参りの人が絶えない。それはすべてを管理することは難しく、どこかに火の神がかかわるということを制作者は謙虚な意味で信じているからだろう。人事を尽くして天命をまつ、とでもいう心境であろうか。
 ところが大陸では砂漠化が進み、そこでは昼夜の温度差が烈しく違うことから人々の生活を守るための様々な工夫が科学的な思考を進化させ、早くから建築などに合理的な方法、すなわち日干し煉瓦や石造建築などを考えさせた。日中の高温を石が保温して、夜を寒さから守る。北国では極寒をしのぐオンドル、スチーム暖房、セントラルヒーティングなど様々な工夫、それにともなう建築方法が開発された。そうした考えが科学や哲学、論理学の発展につながり、自然に対立する概念、いや自然を克服しようとする方法が考え出されてきた。合理性とは「神がかった」部分を否定してゆくことから始まったといえるが、「美」は神がかった部分にこそ存在するからおもしろい。
 日本では縄文時代は温暖化しており、青森県では平均気温で2度高く、現在の静岡県くらいの気候で暖かかったという。人々は自然の中に生き、自然の神々とともに生活してきた。仏教を受容する6世紀以後はやや寒冷化するがその傾向は大きく変わらず、現在でも仏教とともに神道も生活の中に生き続けている。すなわち神仏とともに生きてきたのが日本人といえるのである。合理的というより感覚的な生き方である。その神の代表が支配者として確立されれば、盤石な支配体制が確立される、それが藤原不比等などによって考えられた「天皇制」で、日本史そのものといえるかたちを整えてゆく。

 猿投のやきもの集団はそうした経緯で灰の釉薬、すなわち灰釉を発見した。しかしそこにもう一つの美術的偉業をなした。それが「玉垂れ」である。


筆者によるスケッチ、重要文化財の猿投「玉垂れの壺」

 玉垂れ、これはすばらしい美術表現といえる。釉薬を多めに壺などの作品の肩に塗る。それが溶けて胴体を流れ落ちる、その流れ落ちる釉薬の美しさを愛でる。すなわち須恵器以来、神のなした業、すなわち「自然釉」の美しさを人工的に作りあげたのである。もちろんそれが猿投のやきもののすべてではなく、やきもののボディー全体に釉薬を塗って、中国作品に多く見られるように、むらなく完全な作品を多く作りあげたことは高く評価しなければならない。しかしそれ以上に私が評価するのは「玉垂れの美」である。神の業でできた美を日本人が人工的に作りあげたことである。作品の厚さ、薄さや焼成の温度差によって生じる割れ、ゆがみも味わいとして許容する姿勢、そうした世界のどこにも存在しない美的評価を日本人だけがなしえたということが大事なのである。
 このことが平安以後の美術の流れ、前回述べた「国風文化」の成立と相まって、美術において日本的進化発展、すなわち日本独自の「わび・さび」につながる下地の一つとなっていることをここで確認しておきたいのである。


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