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インターネット公開文化講座

文化講座

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シリーズ 分かりやすい「わび・さび」 日本美術をより深く理解するための一考察

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

黄金の茶室と北野の大茶会

 今回は「黄金の茶室」を中心に書いてみたいと思う。天正13年に作られたとされる「黄金の茶室」は大阪夏の陣で大阪城とともに消失した。作者は断定出来ないが、現実的には当時これだけの黄金を使った茶室を創作できるのは秀吉の命を受けた利休しか考えられない。
 信長が1582年(天正10年)に本能寺で斃れたあと、天下を平定したのは秀吉である。その秀吉と利休は信長の死後3年間は関係が良かった。世にいう「秀吉・利休の蜜月期間」である。その「蜜月期間」に秀吉は利休に命じて「黄金の茶室」を作らせた。この茶室は組み立て式であったので、秀吉は御所に持ち込んで天皇に披露したり、有力者を呼んでは茶会を催し、皆を驚かせて自慢していたという。それが彼の目的であったのだろう。
 では利休がなぜ黄金の茶室をつくったかというと、私は「夜噺」(よばなし・夜の茶会)に使ってみたかったことが利休の最大の目的であったと思う。普通はろうそく一本の茶会が「夜噺」である。真っ暗な茶室にろうそくが一本静かに灯る。通常はそこで黒い茶碗(瀬戸黒とか黒楽茶碗)を使用する。暗闇の中のほのかな明かりに照らされた黒い茶碗とその世界。これぞ利休が本来求めていた究極の「侘び・寂び」であったといえる。


利休の愛した瀬戸黒茶碗(左)と黒楽茶碗

 しかし、黄金の茶室となると、これは考え方も違ってくる。利休ももちろん初めての経験であっただろう。余人には想像もつかないが、真っ暗な部屋の中で、一本のろうそくに照らしだされた仄かな黄金色はさぞや美しかっただろうと思う。更に黄金の美しさを高めるのが茶室の障子に貼られたエンジ色の紗だ。普通、黄金の茶室といえば贅沢、豪奢という言葉が当たり前のように言われるが、夜の茶会、すなはち「夜噺」の茶会に使用されるとなると話は別である。それは究極の耽美の世界である。豪奢の世界ではあるが、反面暗闇の中に光る黄金とエンジ色の紗の取り合わせはおそろしいほどの美の世界でもある。この黄金の豪奢の裏に潜む暗闇の中のほのかな黄金色も私は「わび・さび」といってもいいのではないかと思う。豪華な金を闇の中でかすかに光らせる。金は永遠に光沢を失わない金属とされてきた。劣化のない金属、権力のシンボルとされるその金にできるだけ光を当てないようにして「渋く」演出することも「わび・さび」の深い表現に他ならないからと思うからである。

 かつて信長は利休に茶道具の値段を上げるように指示したという。それはどういうことか?天下平定直前の信長は、恩賞としての土地が平定後はなくなることを考えていた。封建制のもとでは、土地が最大の報酬である。それが子々孫々伝えられ、子孫繁栄につながる。それ故に武士は命をかけて戦場に赴く。それがなくなると、給料を払えなくなった経営者のように、封建君主は大名に見限られる。それゆえ自分の地位と立場を重んじる、プライド高き信長としては、全国統一の覇業を成し遂げるということそのことが土地のなくなることにつながり、部下の離反という危機感につながったと考えられる。そこで恩賞の対象としての「茶道具」を信長は考案した。当時、茶道をたしなむには、信長の許可が必要であるように決めたのは、そのためだった。むやみに茶道を始められないようにした。茶道はサロンというより、たとえて言えば信長株式会社の取締役会のようなもので、もちろん業績を上げないと役員にはなれない、それはすなはち「茶会」にも参加出来ないことを意味していた。たとえば茶会に参加したい秀吉は必死に仕事(戦い)をして「業績」を上げなければならない。秀吉は必死に働いて取締役会、すなはち茶会に参加を許可されたとき、飛び上がってよろこんだという。信長の巧妙さ、すごさはこうした「茶会」という道楽性の強い集まりすら経営の手段として利用したことである。利休はその茶会で使われる「茶道具」を信長の意向に従い自分の美的評価で判断して価値を高めた。本能寺で斃れる前、信長は名品を多数コレクションしている。そして利休によって価値を上げさせ、功績をあげた部下に「褒美」として茶道具を与える。中には茶入れひとつが一国一城に値したものがあったという。


桃山時代の古備前の茶入れ

 戦国時代の梟雄として名高い大和の武将、松永弾正久秀は何回か信長に反旗を翻すが、一度は信長が欲する茶道具を献呈することで赦免されている。二度目の謀反の折にも、信長は久秀に著名な「平蜘蛛の茶釜」を献上すれば許すと言われたが、この茶釜だけは信長などに渡せないという意地から、これを拒み、他の茶道具(茶釜も)と絵画、城と一族を道連れにあの世に赴いたほどである。これなどは茶道具が大名の命と引き替えにされた事例のひとつである。私は当時、刀剣もそうした流れの中で更なる精神的意味を付与され、恩賞として再評価され、高額なものとなっていったのではないかと考えている。本阿弥家が発行する刀剣の折り紙(鑑定・評価書)がそれである。それによって刀の権威と価値が高められたのである。
 信長を引き継いだ秀吉もその延長線上にある。天下平定を秀吉は成し遂げるが、その時点からいよいよ恩賞として部下に与える土地がなくなる。武士達は戦って、その恩賞に土地をもらうのが封建制の基本だ。その封建制に於いて、土地を与えることのできない君主は部下に見放される。権力の維持にあせった秀吉が朝鮮半島をあえて侵略して土地を求めたのが朝鮮出兵、いわゆる「文禄・慶長の役」である。しかしこの時点ではまだ信長が考えた茶道具を恩賞として利用しようと考えていたと思う。
 ところが1587年(天正15年)利休は北野の大茶会を境に秀吉から疎まれるようになる。それは利休が茶の湯を広く大衆化してゆこうとしていることに秀吉が感づいたからである。北野の大茶会は農民でも商人でも、誰でもが参加できる茶会であった。茶道の大衆化、それは茶道の特権階級化をめざし、茶道具を高価にすることによる経済的、政治的効果を狙う秀吉とは対立する方向である。秀吉は10日間開催予定のこの大茶会を1日で切り上げてしまう。その原因はいろいろ取りざたされているが、現在一般的に有力な原因とされるのは、大々的に宣伝したにもかかわらず、茶会への集まりが悪く、秀吉は機嫌を損ね中止したというものである。
 しかし、参加数の問題なら、部下が組織動員すれば簡単に済んだ筈である。私はそのような単純な理由ではないと思う。大茶会の発案者が秀吉か利休かはわからないが、少なくとも利休は茶頭として当然深く関与したことは間違いない。秀吉は北野の大茶会を通して利休のめざす茶道の大衆化にともない、茶道具の大量生産による価値の低下を招くことを危惧したのだろう。秀吉は、その結果を予測しつつ茶会の中止を進言しない利休の自分への忠誠度を「試した」とも考えられる。こう推測することもあながち否定できないことだろう。利休の動きは秀吉の望む方向とは全く逆行していたからである。利休は信長に対しては茶道具の価値を上げておきながら、秀吉には反対に出ている。秀吉の意向を知りつつ反対にでる。これは秀吉に対する反逆である。権力者秀吉も黙ってはいられなかったのだろう。このあたりが北野の大茶会の中止の理由であると私は考える。

 その後秀吉と利休の関係はヒビが入り、利休の切腹まで悪化の一途をたどることになる。その背景には利休の娘、おさん(作家で中尊寺住職であった今東光氏はこの娘をお吟さまとしている)を秀吉が側室として所望したことを利休が断ったこと、不敬罪とされた大徳寺山門の上に置かれた利休木像事件、秀吉の朝鮮出兵計画に対して反対意見を述べたこと、利休の愛弟子である山上宗二を小田原で虐殺されたことなどが利休の心を固く閉ざし、現代流に言えば「切れた」。それはある意味で徹底したレジスタンスであった。ますます秀吉には「反抗」ととらえられたのだろう。一挙に破局に向かう。北野の大茶会の中止から数えて4年後に切腹という最悪の事態に至っている。私がなぜここに着目したのかというと、後に秀吉が利休を切腹に追い込む大きな公の理由のひとつとして、「茶道具の高価販売」をあげているからだ。茶道具の高価販売に秀吉がかなりこだわっている。これはかなり根が深い問題だからではないのか。茶道具の価値を上げることも信長にならって秀吉がしたかったことなのであった。それを利休が個人的に大名たちなどに高額で販売したと考えれば、秀吉の怒りは納得がいく。
 信長の利休への報酬は500石であった。渋い。しかし秀吉は3000石、信長の6倍出している。それだけ待遇を良くしているにもかかわらず、である。その苛立ちもあったであろう。
 利休の茶道の確立を考えてみると、秀吉が「反面教師」であったことが大きいと思う。秀吉の好み、言動、趣味趣向、茶道への志、奢りなどなどに対する反面教師、それが利休の「わび、さび」なのである。そうした観点からみて、利休の世界は、秀吉あっての「世界」だともいえるわけである。そんな利休の「我が儘」を認めていてくれたのが秀吉の弟、豊臣秀長であった。いってみれば秀吉と利休の間を取り持っていてくれたのが秀長であった。その秀長が1591年1月に亡くなった。


赤楽茶碗 楽家九代「了入」作
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