愛知県共済

インターネット公開文化講座

文化講座

インターネット公開文化講座

古美術・骨董の愉しみ方

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

現世を超越した利休の美の空間「黄金の茶室」を考える

今回は茶道の中でも特殊な空間「黄金の茶室」のお話をいたしましょう。かつて私は熱海にありますMOA美術館(大阪城天守閣にも同一のものがあります)で、利休が考えた「黄金の茶室」をみて驚愕しました。黄金に驚いたのではありません。価格で考えれば、黄金仕立てのさまざまな道具より、利休の侘び茶の道具で仕立てた方がはるかに高額だからです。
私が驚いたのはその金色の茶室の周囲にめぐらされたエンジ色の色彩に驚いたのです。なぜこのような赤系の色を利休は使ったのか。よく考えますとこの「黄金の茶室」は本来、利休の作意としては夜の茶会、すなはち夜噺(よばなし)に使う目的で作られたのではないかと思ったのです。

夜噺の一本の蝋燭の光によって照らし出された黄金に輝く茶道具と赤い色の空間は、きわめて恐ろしい空間です。微妙な光に浮かび上がる黄金の光、その黄金色に、さらに暗闇から吹き出る血のようなすごみのある色彩が取り囲む空間、この世の世界なのか、はたまた戦国乱世を駆け抜けた多くの亡霊がつどう修羅道なのか、あるいは菩薩を連れて阿弥陀が来迎する黄金の極楽浄土の世界なのか、我を忘れて立ちすくむような、すざましいまでの耽美の世界。

かつてこのような空間を作りえた人間は絶無だと思いました。このとき利休の美意識は、現世の美を超越したのだと思います。

しかし秀吉に3000石で仕えた千利休ですが、彼は単なる御茶頭としてだけでなく、政治顧問としても活躍したようですが、「北野の大茶会」を境に、秀吉との関係にヒビが入り始めたようです。

秀吉にすれば自分の側近として仕えるはずの利休が、意識の上で自分から次第に離れてゆき、彼独自の茶碗や茶道具を考案して茶道の大衆化を進める、それは別な意味での経済的効果に秀吉は危機感を持ったのでしょうか。あるいは秀吉が前から嫌う「黒楽茶碗」を利休があえて大量に作ろうとした、そうした利休の 「レジスタンス」を秀吉が敏感に感じ取ったのか、いずれにしてもその関係は相互の意地の問題から悪化の一途をたどります。

利休が新しい茶道具を高額で販売したということは、利休の切腹後に、多くの同時代人が日記や手紙にそのことを残しており、彼らの多くは切腹は同情の余地のない、いたしかたのないことといった「冷淡」な態度をあらわにしています。

利休の娘お吟(おさんという説もある)を秀吉が側室に所望したところ利休に断られたり、秀吉がくぐる大徳寺山門上に利休像を置いたことを「不敬罪」としたことなど、利休を追い詰めて権力で押さえ付けようとした秀吉の気持ちの背後はどうだったのでしょうか。

当時、天下をとった秀吉の関心は過去の堺(利休の生誕地)から中国、朝鮮貿易の拠点である長崎に移り、茶人島井宗室に代表される商人たちとの交流に移ったことも見逃せません。次第に無視され孤立してゆく利休の姿がここにみられます。

秀吉の政治的顧問のような仕事をし、さまざまな秀吉の裏側を知る利休は、最晩年の秀吉にとって必要のない存在というか、むしろ邪魔くさい存在になったのかもしれません。周囲への不信感、あせり、被害妄想に悩まされた権力者秀吉の晩年は悲劇とも喜劇ともとれる結末を迎えます。朝鮮出兵もそこに影を落としています。

秀吉のさまざまな圧力に屈せず死を意識しつつも、自分のあるべき姿、また男としての「意地」を貫き通したことが利休晩年の姿といえるのではないでしょうか。秀吉と、自己の世界の完成にひたすら走り続けた「孤高の芸術家」利休の間に生じた精神的な間隙の拡大をそこに見るような気がします。

村田珠光、武野紹鴎など、先人の茶道を引き継ぎ、利休によって大成された「茶道」はいわば日本文化、精神文化の集大成ともいうべき内容の深さを持っています。庭造りから建築、陶磁器、漆器、釜(鋳造)、石、書、絵画、能、華道、香道、懐石料理、酒、織物に至るまで、日本の芸術、工芸品すべての粋を極めた一級品ともいうべき品々が、茶を喫する一事を取り巻き、それを演出します。その無数の取合わせの中から道具を選択し、それにふさわしい茶の世界をつくりだす、それが「目利き」という言葉の本来持っている意味といわれます。

現在では「目利き」は古美術・骨董品の真贋を見極める人、その経済的価値を評価する人のことを指しますが、すべて真作で贋作の問題のなかった当時は茶道にふさわしい道具類を選び出す、そうした能力のある総合コーディネーターのことを「目利き」とよんでいたようです。

このページの一番上へ