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東北こけし紀行

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

こけしの謎を解く 6 「木地山系こけしを考える 2」


川原毛地獄と供養されるこけし(筆者による推定写真)

 前回は秋田県湯沢の奥、木地山にある賽の河原、閻魔堂、日本の三大地獄の一つ川原毛地獄などを考えることによって、温泉にある地獄の様相を呈する源泉のすがたと浄土思想における六道世界の一つである地獄が結びつき、飢饉・凶作で間引かれ、「賽の河原」で鬼にいじめられているであろう我が女児の供養をすることが、毎年の温泉養生に出かけてくる農民たちにとっての重要な目的の一つにもなっていったのではないかと考えました。 賽の河原に見立てられた自然の温泉の源泉場に供養されたと推測すると、江戸期の古いこけしはすぐに朽ち果てて、現存しない理由もうなずけます。
 間引きはすでに飢饉・凶作の折に昔から実際に行われてきた事実として資料も数々残されており、それらに関してはすでに多くの研究者が述べているところですが、「こけし」がその折の犠牲、すなわち間引かれた多くの女の新生児たちの慰霊、供養の目的で作られたものであろうということを考察、証明することが私の今回の連載の目的なのです。学問的立場からは古文書など文献の発見による証明が一番決定的な確たる論拠になるのですが、「こけし」に関しては主体の大半が、当時読み書きのできなかったであろう農民であることと、「間引き」が藩から禁止されていた事柄ゆえに、そうした記録はおろか伝承さえも公に残ることは難しかったであろうことが想像されます。ですから存在しないであろう文献に頼ることはほぼ不可能なことであると思います。そこでかつてチャレンジされなかったことに手がけざるを得ませんでした。それが残された「こけし」そのものの研究、こけし本来の姿と形、描彩すなわち描かれている絵模様、図柄、色彩など、作品であるこけしそのものに残されている表現の数々からアプローチしてみようと考えたのです。いわばそれは最も当然で、ごく自然な方法と思われます。
 多くの愛好家、研究者の大半が説得力のある文献発掘に活路を見出そうとして、本来の主体たるこけしそのものを顧みなかったのではないかと思えます。もし、こけしの表現そのものがすべて慰霊、供養という方向に向いているとしたら、「こけし」はもともと宗教的目的、すなわち慰霊目的で制作された仏教民俗学的なジャンルの系列の遺品であり、「こけし」の成立当初において、多くの方々が主張してきた「こけし玩具説」はなかったという結論になると思われるからです。

 津軽系こけし、南部系こけし、木地山系こけしと探訪の旅をしながら描かれてきた文様と絵柄について今まで考えてきました。ところで今回の木地山系の小椋家のこけし、高橋家のこけし、阿部家のこけしにも、様々な文様が描かれていますので、それらを新たに見てゆくことにしましょう。その中で一番多い絵はもちろん花ですが、これはどのこけしにとっても重要ですので後ほどまとめて考察してみたいと考えています。

 

 そこで次なる特徴的な文様は木地山系では「井桁(いげた)文様」ではないでしょうか。多くの木地山系こけしには井桁文様(いげたもんよう)、すなわち井の字形の文様がこけしの装飾に使われています。この文様の次に稲川町の高橋雄司さんと父、兵次郎さんの製作されたこけしの帯に描かれる★文様、すなわち五芒星が興味をひきます。

 それではここで、井桁文様から考えてみましょう。
井桁は漢字の井戸の井の模様です。
井桁を辞書で調べてみますと
①井戸の地上部の縁に,上から見て「井」の字形に組んだ木枠。
② ① をかたどった家紋や模様。本来は斜方系のものをいう。 →井筒。
と、あります。
すなわち井戸のマークである井とそれをかたどった家紋ということになります。しかしそれだけでしょうか?


京都東山の六道珍皇寺の参道

冥界に通じるという古井戸

地獄の裁判長の閻魔大王像

小野篁像

 以前にも書きましたが、京都の東山、六道の辻に近い六道珍皇寺という平安時代の古寺があります。空也上人の寺として有名な六波羅密寺のすぐそばですが、この寺は由来によりますと三途の川を渡ったあの世に10人の裁判官、すなわち閻魔大王を筆頭とした死者を裁く冥界の裁判官がいまして、死者が三途の川を渡ってやってくると彼らが生前になした行為の内容を吟味して善悪を裁くとされます。その裁判官の一人が平安時代の歌人にして書の達人公卿の小野篁(おののたかむら)といわれ、六道珍皇寺に縁が深かったというのです。その珍皇寺には深い井戸が今も非公開ではありますが存在し、かつて夜ごとに小野篁はその井戸からひそかに冥界に通ったと伝えられています。彼は恩人である上司の藤原良相(ふじわらのよしみ)が病で亡くなって閻魔の前に引き出されたときに、かつての恩に免じて命を一度助けてやってほしいと閻魔に掛け合って、現世に生き返えらせたという伝承があります。井のマークはこの井戸、すなわち冥界への入り口という意味もあることがこの話でも分かりますし、井戸がこの世とあの世を結ぶ輪の世界と同じ意味を持つということもわかってきました。(井戸は上に井桁がありますが、井戸そのものは筒状態で掘られています。玉琮の穴を思い出してください。中国古代の王権のシンボルという四角の玉石に丸い穴が貫いて彫られている玉器です。)
 また井の字は十と十をずらして重ねるとできる字です。十すなわち×は古来より魔除けの護符の文様である☆と同じ意味を持ちます。


×と井のイラスト

井桁文様の変化

星文様の変化

 ☆はエジプト王家の谷のファラオの墓の天井に無数に描かれる大の字文様、すなわち宇宙の星々や古来、王を守る北斗七星や北極星が多く歴史に登場します。それによって守られるファラオの霊魂、その意味での護符、☆は宇宙の星々が霊魂を守ってくれるという信仰に由来する護符の一つと考えられます。高松塚やキトラ古墳の宿星図もまさにこの流れの護符、守り神であることは間違いありません。


エジプトのファラオ、ラムセス2世の最愛の妃・ネフェルタリの墓室天上の宿星図(Kent R. Weeks 著『The Illustrated Guide to Luxor or Tombs,Temples,and Museums』The Amercan University in Cairo Press 発行2005年より掲載)

 また京都を守る「大文字焼きの大」や生まれて初めてのお宮参りの折に赤ちゃんの額に「大」の字を書きますが、これは人々を守る護符、すなわち☆に由来する図と考えられます。また、☆文様は川連のこけし工人の高橋雄司さんやその父である高橋兵次郎さんのこけしの帯に表現される文様の一つです。(写真参考)同じ地域、木地山系こけしである小椋久太郎家のこけしの井桁文様と高橋家の☆文様が同じ系列の護符の文様であることもわかりました。また井桁の文様には冥界との関係もうかがえるようです。


地獄を思わせる泥湯温泉の源泉

木地山の頂に近い泥湯温泉の入り口

泥湯温泉街のメイン・ストリート

小椋家代々の墓

小椋久太郎翁の碑

 秋田県川連の大館地区には江戸時代後期からと伝えられている「百万遍大数珠」があります。かつて亡くなった人が出ると、その葬式の日からその親族縁者が三日三晩念仏をとなえ、極楽往生を願い、その大数珠をたぐり続けるといいます。その大数珠はただの大数珠ではなく「ヒトガタ」つまりこけしが繋がれていたといいます。今ではさすがに葬儀の様子も変化して、そうした風習はすたれてきたようですが、かつてはヒトガタとしてのこけしに戒名を記して穴を開け数珠につなげてあったといいます。前述のこけし工人の高橋雄司さんの話によると、はじめは亡くなった方の慰霊を目的として、木製の地蔵菩薩が数珠に連ねられていたといいます。すなわちあの世で迷える霊魂を救うために地蔵菩薩の姿の仏像が数珠に連ねられ、後につくり易さなどからこけしに変化して使われるようになったと思うと話してくださいました。ヒトガタとしてのこけしが葬送の現場である儀式に仏像である地蔵菩薩の代わりに使われてきた重要な一つの事例といえそうです。「ヒトガタ」が連なる百万遍大数珠は江戸時代から、死者の形代として祈りの声とともに長年たぐり回され続けてきたというのです。下の写真はまさにその実例でしょう。


こけしの数珠 (川連漆器研究家・佐藤勝雲氏主催「伝統川連こけし源流展」開催時に展示された同氏所蔵品)

川連の百万遍大数珠(筆者蔵)

 飢饉・凶作の最もひどかった江戸時代の天明の頃以後のことでしょうか。女児が間引かれると、親は藩からも禁止されていることもあって公にも間引いたことはいえないので、年貢を納めたあとの温泉養生の折にひそかに木地師に頼んで「こけし」を製作してもらい、地獄に似ているとされた温泉の源泉である「賽の河原」で亡き女児の供養をひっそりとしてきたのだと思います。きっとそうした信仰の思いが川連の百万遍大数珠供養のヒトガタのイメージにつな がっていったに違いありません。


泥湯温泉の初雪

木地山の秘境泥湯温泉

 次回は有名な鳴子に向かいます。

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