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インターネット公開文化講座

文化講座

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東北こけし紀行

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

こけしの謎を解く 8 「霊山・月山のふもと、肘折(ひじおり)のこけし」


月山の麓から肘折温泉を流れる銅山川

 木地山の取材から山形県新庄駅に向かい、西口から肘折温泉行きのバスに乗りました。なんと一日に6本しかないバスで、最終バスが東京では考えられない5時10分。これを逃したら行けないのであわてて乗りました。今日の宿は「旅館 西本屋」で事前に予約しておきましたが、その折の電話では新庄から1時間以上かかるので、通常の夕食には間に合わないので簡単な夕食になりますがいいですか?との返事でしたので、「構いません」と答えました。むしろお腹のふくらみが気になる昨今、粗食は望むところですが、宿泊費は1000円安くなって5400円だというのです。二食付ならずいぶんと安いなあ...と思いつつお願いしました。バスから暮れなずむ霊山・月山山麓の山々の景色を楽しみながら6時25分に終点の肘折温泉に着きました。いつの間にか何人かいた学生さんたちは降りて、バスの終点での乗客は私一人になっていました。降りたら一人の男性が手を出してきて、私の荷物を持とうとするではないですか。びっくりしたら「細矢さんですね?宿の主人です。お迎えに来ました」なんとも人情味のあるお宿のようです。この肘折温泉はとても良い温泉で、温度もちょうどよく、快適な一風呂を浴びて、夕食。粗食どころか、立派なお膳で、煮物、地元の季節の山菜とお椀、おいしいお漬物に大きな焼き魚一匹に大満足。その日は寝るまでに3回温泉に入りました。浴槽の壁に水槽が埋め込まれてあって、そこに金魚がたくさん泳いでいて、なんともたのしい温泉です。ご主人のお話では豪雪以外は朝市が立つそうで、翌朝が楽しみです。


楽しい朝市...バスがスレスレに通ってスリル満点

薬師堂にある地蔵大菩薩石碑

 私は「肘折のこけし」がとても好きで、もう20年以上前から少しずつ集めてきました。特に奥山喜代治のやさしい顔と佐藤巳之助の気の強そうな女の子のこけしが何ともいえない表情で好きなのです。お二方ともにすでに故人となられ、現在は鈴木征一さんが一人で肘折の伝統こけしを背負って制作されています。その鈴木さんのお店・工房をたずねました。


鈴木征一さんのお店で

内閣総理大臣賞受賞作

 春の雪を頂いた月山、湯殿山の山々が見える美しい高台に鈴木さんのお店がありました。月山、湯殿山には学生時代に旅行で初めて訪れました。その後、森敦の芥川賞受賞の名作「月山」はしばらく私の愛読書の一冊でした。映画になって観てからまた旅行したくなり社会人になってからも訪れたことがありました。
 その小説の冒頭を森はこう書きだしています。
 「ながく庄内平野を転々としながらも、わたしはその裏側ともいうべき肘折の渓谷に分け入るまで、月山がなぜ月の山とよばれるか知りませんでした」ここに肘折が出てきます。
 月山は上古より、死者の逝く山として畏れられてきた歴史があります。月は太陽の反対であり、日月、昼夜、陰陽、金銀、明暗、白黒という言葉のように、現世と来世、この世とあの世は対の概念です。月は白く輝き、白は冷たく純粋で清い世界であり、何ものにも染まっていない純粋な雪の世界をあらわしています。それは死者の赴く世界と考えられてきました。深い雪に覆われて銀色の月の光に輝く月山はまさに霊峰であり、死者たちの山だったのでしょう。
 死者の赴く山ですから、やはりこけしの慰霊と関係があるのだと思います。肘折はまさに霊山月山への入り口であり、冥界への入り口ともいえます。登山口が鈴木さんの工房の近くにあります。


遠く月山を望む肘折温泉街

 肘折という地名について、柳田国男は、月山のふもとから流れ出る銅山川がここで大きく肘のように曲折していることによる地形からの命名としています。
 歴史的に調べてみると、江戸時代には肘折温泉は月山を始めとする出羽三山への参道口として多くの参詣客を集め、賑わったといいます。ここには天台宗寺院である「阿吽(あうん)院」が建てられた歴史があります。現在も登山口として「肘折口」があり、登山道が整備されています。一方、湯殿山の前身とされる葉山修験の拠点としても、真言宗寺院である「蜜蔵院」があったといいます。肘折温泉には出羽三山、葉山などへの参道口として多くの宿坊があったようです。
 月山には日月寺に安置していたという地蔵菩薩を祀る地蔵尊や、南無阿弥陀仏石碑等が残されています。以前書いた水子や、間引きされた不幸な子供たちを救う地蔵菩薩や阿弥陀仏石碑などがあるこうした霊場の入り口に「肘折こけし」の故郷があることは霊山と慰霊、その両者の関係を明確に物語っています。

 鈴木さんのお店にはたくさんの肘折こけしが並んでおり、たのしい雰囲気です。見れば故人の作品も多く、丑蔵、奥山喜代治、佐藤巳之助、野地忠男なども並んで興味を引きます。こけし制作する工房は別のところにあり、そこでろくろを挽く鈴木さんの姿を見せていただきました。ふと工房の中を見上げると、鞴(ふいご)が棚の上に置いてありましたので、尋ねたら特殊な形をしたかんな(バイト)は自分で作るしかないので鍛冶の道具も揃っているのだといいます。京都や東京(江戸)からはるかに離れた東北で伝統こけし作りを続けていくには、道具製作の一から自分で作らねばならなかったのでしょう。山里深くに入るという覚悟を感じます。


鈴木工人のろくろ挽き

棚の鞴(ふいご)

 以前、菊の花が葬式や供養の花に使われることが多いと書きました。この事実を肘折こけしに見てみたいと思います。そもそも花を描くということは、供えるということを意味する場合が多いと思います。日本においては古来、おめでたい時に花を送るという習慣はなかったようですが、第二次大戦での敗戦の結果、アメリカや西洋の文化がなだれを打って押し寄せて、外来文化が我々の日常の生活に入り込んできました。結婚式に花を贈る、またウエディングドレスを着た花嫁がブーケを持つ、感謝のしるしとして両親に花束を贈る。母の日なるものが決められて赤いカーネーションを贈る。また誕生日のお祝いに花を贈ることなど、枚挙にいとまがありません。しかしそれらは考えてみれば敗戦以後の商業主義的風潮なのです。日本古来の婚礼で、角隠しの和服の花嫁が花を持ったり、贈られたりすることはありませんでした。伊藤左千夫の小説「野菊の墓」のように、菊花は墓に供えられるもの、仏壇に供養されるものと相場は決まっていました。それでは茶道における生花はどうかといえば、これも仏教的背景が強く、自然観、特に移ろいゆく自然の美しい一コマを切り取った表現であり、一期一会的な空の世界の表現といえます。
 そうした日本の古くからの習慣を考えれば、こけしに描かれる花が祝いの花ではないことは明らかであります。蓮の花が仏教のシンボル的な存在であることと同じです。10万年前の現代人の祖先と考えられるネアンデルタール人が、亡くなった親族か仲間を葬送した折に花を添えて死体を葬った事実をわれわれはもっと深く考える必要があります。平安時代の歌人、西行法師が、美しく咲き誇っている櫻花の下で死にたいとうたったように、咲き誇る花は浄土のシンボルでもあり、花園は冥界のイメージが強く投影されています。
また日本の美学の原点と考えられる「源氏物語」の秋の表現や「古今集」「新古今集」の秋の歌を読んでみると、季節の移ろいは人生のはかなさ、男女の恋のはかなさとオーバーラップしており、紅葉や秋草の織りなす美しい表現は人のもつ「花のいのち」のはかなさの、しみじみとした詠嘆と諦念の裏返しとも思えるのです。日本人にしか理解できないすばらしい美の世界がそこにあります。

 私の母は戦後の苦しい時期に、私が3歳くらいのときに盲腸をこじらして腹膜炎を併発して危篤状態になったことがありました。死地をさまよったその夢うつつの中で、きれいに咲き誇る花園の向こうに母の亡き父がいて、母にこちらに渡って来いと手招きをしていたそうなのです。母は自分の父の所に行きたかったそうですが、花園が邪魔して道がなくどうしても行けなかったそうです。往けなかったから生還できたのではないかと話してくれたことがありました。そんな花園はまさにあの世のイメージです。

 先日の8月6日、テレビを見ていましたら広島の原爆投下の日に慰霊の折の映像を放映していました。参列者は白い菊の花を祭壇に捧げて、亡き犠牲者の冥福を祈っていました。
 こけしの胴体に描かれる花は、こうした日本古来の習慣である冥福を祈る献花であると思います。私がそれを確信したのは、肘折こけしの作者、佐藤巳之助のこけしや遠刈田のこけしを集め始めた頃からでした。
 日本では古来、四とか四二という数を忌み嫌いました。「死」とか「死に」という意味がその数に含まれるからです。日本人が結婚する場合に、結婚式はおおかた大安吉日に挙げることが多いようです。縁起を重んじる結婚式には大安吉日を選び、凶日を避けます。葬儀の折には「友引」を嫌う。これらは古来の風習、習わしというものです。こうしたことを考えるとおめでたいことに四(死)や四二(死に)はふさわしいものではありません。ところがこの四や四二がこけしに表現されることが多い事実に私は気が付きました。それが佐藤巳之助作のこけしや遠刈田こけし、鳴子こけしに多く見られるのです。もちろんすべてのこけしがそうであるというわけではありません。三とか五という数字もあります。それらはおそらく四とか四二という凶数に気が付いたこけし工人が、子供のおもちゃやお土産などにふさわしくないと修正した可能性があるかもしれません。しかし伝統こけしに最初からこうした死のイメージがあることは現在伝承している多くのこけしの事例からも否定することはできません。


佐藤巳之助こけしの胴に見る四本の花と二本の花

同氏の初期こけしの胴に見る四本の花

遠刈田こけし他に見る四本の花(まだたくさんあります)

 何度もいいますが、日本古来の風習、習俗からいって四の数をおめでたいものに書き込むことは絶対にありません。古くから日本の朝廷には「有職故実」という風俗、習慣に関する厳格な決まりが存在し、忌み嫌われる「死」(四)のイメージに関連する事柄は完全に排除されており、様々な行事や祭りに四を使うことなど絶対にありません。吉祥紋を重視した徳川幕府への献上品などに、こうした四や四二などが表現されることも絶対にありません。こけしの有名な研究者やコレクターの中には、こけしは祝いに使われたものだと平然といってのける方がおりますが、何を根拠にそういわれるのでしょうか?またこけしに描かれるこうした凶数をどう思っているのでしょうか。

  
巳之助こけし胴下に見る4本の花の描き方

 これらの点を考えてみると「こけし」は祝いの物では絶対にありえません。こけしが本質的に子供のおもちゃなどではなく、仏教的供養ということ、仏教民俗学的な美術品に属するすばらしい遺産であることを考えると、すべてが納得できるようになるのです。


右二本が肘折こけしの名工・奥山喜代治のこけし、左が鈴木征一さんのこけし

戦前の郵便局とかわいいポスト

 次回は仙台や山形・蔵王・遠刈田、秋保こけしの描彩について述べてみたいと思います。
ますます不思議な世界が現れてきます。

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