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東北こけし紀行

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

こけしの謎を解く 5 「木地山系こけしを考える 1」


三途の川 表示

木地山のこけし 小椋久太郎作他

 花巻のこけしを取材し、宮沢賢治記念館や高村光太郎記念館、花巻市博物館など花巻の文化を見学して、秋田県湯沢にやってきました。ここではすぐ近くの川連塗が古来有名です。東北において木地師の文化が根強く形成されてきた歴史については以前書かせていただきましたが、それとともに繁栄したのが漆工芸でした。いわばこの二つは切っても切れない関係といえる世界を構築していました。漆あるところには木地師あり、木地師いるところには漆職人ありということになります。東北の奥の深い文化を改めて感じます。このあたりは稲庭うどんのふるさとでもあります。東京でも有名になりつつあり、稲庭うどんの美味しさを方々で堪能できるようになりました。


小安峡温泉の広々とした浴槽
 
旅館のこけしコレクション

 さて今夜の泊まりは小安峡温泉にしました。ここの温泉は次の取材目的地である小椋久太郎さんのところにも近く、地元だけに小椋さんとその一族のこけしがたくさんケースに陳列されています。それを見ているだけでも楽しいひと時が過ごせます。この辺りは紅葉の美しさでも知られています。花巻を出るのが予定より遅れてしまい、小安峡に着くのが夜になってしましました。小ざっぱりとして素敵な温泉に宿をとりました。なんといっても日本の旅行では「温泉」の質と雰囲気が旅の一つの評価基準になりますから、今回の連載のように「こけし」が温泉と結びついた文化を形成しているということは私にとってとてもうれしい研究対象となります。この日はゆっくり温泉に入り、青森、浄法寺、盛岡、花巻からここ小安峡までの長いドライブの疲れをとるようにしました。農民たちが年貢米を収めるために必死に頑張った、その農作業による疲労困憊の疲れ切った体を温泉で休めたという、その気持ちが実感として少し伝わったように思いました。のんびりと温泉につかって、質素であってもゆっくりと味わって食事をいただき、休憩してはまた温泉にたっぷりつかる。これを毎日繰り返していれば、きっと体力の回復は思いのほか早かったに違いありません。
 温泉場というところは歓楽街やにぎやかな環境を思い浮かべるものですが、この小安峡は静かで何もない、ただ自然だけがある素敵な温泉場です。手足を思いっきり伸ばして温泉に入れるのはこうした宿の大きな浴槽に限ります。


小椋家のこけし
後列2本:小椋留三作
前列右4本:小椋久太郎作、前列一番左:小椋泰一郎作、となり柴田鉄蔵作
 
木地山系こけし
一番右から順に高橋雄司作、高橋兵次郎作、阿部平四郎作、その左2本:同作
その左:阿部陽子作(阿部平四郎の妻)、阿部木の実作(阿部平四郎の娘)
(上下とも筆者所蔵)

 小椋久太郎さんのこけしと小椋家の古い歴史は5代前か6代前までは家系図で確認できますが、それ以上に古いところは手持ちの資料では不明です。しかし小椋という名前は近江の小椋谷の地名にちなむともいわれています。それは、今は途絶えつつある小椋家のこけし製作を語る上では欠かせないものと思われます。前にも書きましたように、第55代文徳天皇の第1子として生まれた惟高親王(これたかしんのう)は天皇位最右翼の立場にいながら、皇位を藤原氏を母に持つ第4子に奪われ、近江の小椋谷に隠棲、出家遁世したといわれます。木地師の小椋家もそうした惟高親王に関係する家系ともいわれますが、はっきりしたところはわかりません。しかし西暦770年に遡る百万塔の製作以来、古墳の副葬品である須恵器から脱却した陶器の拡大と相前後するように衰退の一途を辿った木地師の歴史ですから、東北の山深い、奥羽山脈の山懐に抱かれたこの地に安住の地を得るまでには、生き抜くための紆余曲折の変転があったと思われます。


浄法寺に伝わる木地師のろくろ挽きのようす (写真提供:浄法寺歴史民俗資料館)

木地師の仕事と漆の合作作品 春日盆・奈良春日大社伝来 室町時代 著者所蔵

人には見えない裏に施された螺鈿文様が神に捧げられる盆にふさわしい。

小椋家の墓と石碑

 この木地山という地には日本の三大地獄といわれる川原毛(かわらけ)地獄があることは一般的にはあまり知られていないようです。地獄とは、世界を六道という六つの世界、すなわち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天に分け、その中でも最悪の世界のことをいいます。生前に最も罪深き所業をなした者が往く世界を地獄としました。亡くなるとその霊魂は三途の川を渡り、そこで閻魔大王を含めた十人の裁判官の審判を受けることになっています。以前に述べたように、その思想はもともとエジプトに芽生えた考え方であり、三途の川はじつはナイル川なのです。エジプトには三途の川、すなわちナイル川を渡ると死の国、冥界を支配するオシリス神がいて、死者の生前の行いを審判します。法・正義・真理の神、マアトの羽と死者の心臓を天秤にかけて釣り合ったら極楽行き、釣り合わないと地獄行きを決めます。それはまさに阿弥陀信仰、閻魔の世界にきわめて似ています。

 またここに登場したオシリスですが、その妻はイシスといい、夫婦で冥界を支配しています。私は今までその出自や意味がまったく不明とされてきた恐山のオシラサマも夫婦のように対であり、夫婦の神、それも冥界にいる訳ですから、もうそれは同じであろうと考えられます。以前から考え続けてきたことですが、長い年月を経る中で、オシリスサマという敬称の呼び方がなまってオシラサマになったのではないかと思います。日本もエジプトも同じ農業国家であり、豊穣、豊かさの神々は多く存在しています。オシラサマは豊穣の神とされていますし、冥界にいる珍しい夫婦神であるという点も酷似しています。日本にはエジプトの宗教習慣や遺物、また古代ヘブライ時代の文化や宗教遺物において、極めて似ているものがたくさんあります。これらはまた時間をかけて順次解明してゆきたいと考えています。オシリス・イシス神 = オシラサマという図式はこれからも検証してゆきたいと思います。
 さて、この木地山高原の小椋家のすぐ下の川原毛地獄に続き、さらに下流には閻魔堂、三途の川渓谷が続きます。


三途の川渓谷

閻魔堂

閻魔堂内部の十王像

閻魔の橋の欄干

三途の川渓谷案内図

 もともと温泉にはお湯が噴き出ている訳ですが、お湯とともに硫黄や有毒ガスが噴き出ており、あたり一面に充満しています。川原毛地獄の荒涼とした生者を寄せ付けない風景はあの世を思わせ、恐ろしい地獄の風情を漂わせています。下北半島の恐山や立山も天下の霊場として有名ですが、川原毛地獄や賽の河原もまさにそれに該当します。

 そうした点を総合して考えると一つの推測が成り立ちます。東北の温泉には寒冷地ゆえに江戸時代の温泉流行などよりずっと昔から厳しい農作業を終えた農民たちが体を休めに来て、そこで体力が回復するまで逗留したことでしょう。そうした意味で温泉は、古来信仰をあつめた現世の病苦を治す「薬師如来」そのものともいえます。温泉と薬師信仰は切っても切れない関係にあります。その東北の山深い温泉地には、はるか遠く近江の地から流転の歴史を経てきた木地師が住みついており、温泉にきた農民たちに木のお椀や皿、お盆などを安価に提供していたと推測されます。その農民の中には貧しい生活の中で早く子を亡くしたり、飢饉、飢餓のときに生まれたばかりの女の子を間引いたりした悲しい過去をもった農民も多くいたことでしょう。男の子は労働力として確保され、間引かれることはなかったようです。こけしが女の子に限定されるという最大の疑問を解くカギがここにあるように思われます。これ以外にこけしが女児だけであることを説明できる理由はありません。そこで次のような一つの図式が考えられます。

 凶作・飢饉 ⇒ 食減らし ⇒ 姥捨て・生後間もなき女児の間引き ⇒ 慰霊のため温泉地の木地師に女児のこけし作りを依頼 ⇒ 温泉場には必ずといってよいほどある「賽の河原」での供養と慰霊をした。

 江戸時代の百姓一揆は記録に残るものでも享保、寛保の時代には合計23件、天明の時代には24件、天保の時代には30件、慶應の時代には同じく30件が記録されています(1966年の青木虹二氏の調査による)。このように百姓一揆は時代を経るにしたがって増加傾向にあります。数の上では一見少ないように思われますが幕府や藩の手前、記録に残されずに鎮圧、処理された一揆も数多かったに違いありません。一揆は百姓たちにとっては藩に逆らう命がけの、やむに已まれぬ死を覚悟の上の決起であり、最後の手段であったと考えられますから、一揆が増えてきていることは彼らを取り巻く生活の厳しさを端的に表していると思われます。このように農民がすべてを食べつくし、飢餓の果てに追い詰められ姥捨てや間引きが行われたことはたくさんの史実が伝えてくれています。それを取り巻く多くの藩ではそうした間引きを禁止しています。当然のことながら藩では将来の働き手が減少することを危惧しての処置であると考えられます。農民が少なくなっては藩の収入に直接影響を及ぼします。人口減少問題は現代日本では国家の命運のかかる深刻な問題になってきているように、当時でも大きな問題であったと思われます。ですから藩が「間引き禁止令」を出さずには済まないくらいに間引きは多かったのが実情だったのです。文字の読み書きができない農民たちにとって、そうした記録は不可能であり、まして藩から禁止されている間引きを公に口に出す農民も、また後世に伝えようという農民もいなかったと容易に推測できます。こうした悲劇が歴史のかなたに埋もれたことは「こけし」の名称にもうかがえます。こけしの名称の起源に「こげす」「こけす」という名称があるのは「子消す」から来た可能性があります。私はそれがやむに已まれぬ「間引き」という村の掟に従わざるを得なかった場合においても、間引かれた子の供養、慰霊をささやかながらしてあげたいと考えることは、人の親であれば当然のことと思います。まして彼らは温泉場に来ているのですから、すぐそばにあった地獄を思わせる「賽の河原」に行って供養することは難しいことではなかったでしょう。親より先に死んだ子は「賽の河原」に集うといいます。そこで石の塔を作ることを課せられますが、完成すると鬼が来て壊してしまいます。それを永遠に続ける運命なのです。ですから温泉の源泉あたりの荒涼とした岩場を心の賽の河原と見立てて供養したのです。こうした供養はきわめて人間的な行為、止むにやまれぬ行為といえるでしょう。


賽の河原で供養されるこけしの推定写真(筆者の設定と撮影)
間引かれた子の供養をささやかながらこうした温泉場にあった賽の河原で行ったのでしょう。
その後、供養されたこけしは自然の風雪の中で朽ち果てていったと考えられます。

 それは人間としての厳粛なる悔恨そして懺悔の行為です。賽の河原で供養されたこけしはすぐに朽ち果ててその痕跡すら今に伝えていませんが、逆にそうした江戸期のこけしが現在までまったく存在しないということは、江戸時代の人々の信仰というものにはブレがなく、木地師が依頼され作ったこけしは、すべて供養されて消滅していったと考えるのが至極、自然なことであるように思います。人の命の分身とされた、供養目的のヒトガタである「こけし」を玩具目的にしようなど、江戸時代の農民たちはまったく考えなかったと思います。ヒトガタを玩具として考える人は、不信心な現代人であり、江戸時代の人たちの信仰の真剣さを理解しえない人たちといわざるを得ません。合理主義では理解できないのが「信仰」というものであり「救い」なのです。それは「心」の問題なのです。
 賽の河原で供養される目的で製作されたからこそ、それは自然腐食し、まったく現存していないのです。最初は「きなきな」のような素朴で顔の描かれていない無地こけしだったかもしれません。
 木地師たちにとって、農民の依頼である供養のヒトガタとしての「こけし」を挽くことはいとも容易なことであったと考えられます。そうしたヒトガタに次第に彩色や文様が描かれてゆくということは、その後「間引き」したかなりの農民たちにその供養方法が受け入れられていったことを意味しています。
 更にこけしには茅の輪を意味する輪文様などが描かれたり、以前に書いたような唐草、半載九曜文、蓮や菊とされる花が描かれたり、仏像の光背と思われる頭上の円形文様などが次第に描かれていき、明らかに慰霊、供養としての「こけし」の体裁を整えていったと推測されます。


川連の高橋雄司工人

 そして子供が生きていたら、今ではきっと愛らしい女の子に育っていることであろうという気持ちを込めてかわいい顔に描かせたに違いありません。それが「かわいいこけし」の始まりで、江戸時代の飢饉が収束して、国家も新たな支配体制である明治時代を迎えるとともに、近代合理主義の高まりの中に、「こけし」の慰霊的信仰要素がうすれ、しだいに玩具への道を歩む「こけし」の新しい生きる道が始まってゆくのです。

 このように木地師の流転や農民の飢饉、間引きとその慰霊、供養を考えると「こけしの謎」は不思議なくらいに解けてゆきます。東北の温泉に成立したという「こけし」の地理的な問題も理解できるようになります。ただ「こけしの成立時期」となりますと、これは推測の域をでませんが、一般的には温泉が都市に住む庶民の娯楽になるのは浮世絵師である名手、鳥居清長作の「箱根七湯名所」(天明元年・1781年)、歌川広重作の「箱根湯治の図」(天保3年~12年頃)に出版され、このころから浮世絵が続々世に出るのがその始まりですから、やはりそうした温泉文化の浸透から考えてゆくと、天明の大飢饉1782~87年の前後からではないかと考えられます。東北地方では特に冷害、中でも霜の害から始まった天明の大飢饉は、翌年の浅間山大噴火の噴煙被害も加わり、ひどい被害を東北に与えました。奥羽から津軽藩では十数万人という大量餓死者がでたほどといいますから、その被害は想像を絶したことでしょう。それ以前の享保年間(1716年から1735年)、寛保年間(1741年から1743年)にも一揆は多くなり、その後も天保の飢饉、慶應の飢饉など、江戸末期から明治時代においても飢饉と農民一揆が続発しました。ロシアが対日接近するなど、幕末から明治時代は世情も混乱し、不安定で幕府の権威も力も衰退していった時代でした。こうした時期に東北地方では「間引き」は盛んに行われ、それとともに悲しい歴史の供養、慰霊のための「こけし」が農民の手で誕生してきたと考えられます。

 次回の「木地山系こけしを考える 2」において更なる一歩を踏み込んでみたいと思います。

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