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東北こけし紀行

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

こけしの謎を解く 10 「弥治郎こけしのふるさとを訪ねて」


すばらしい木造建築で有名な鎌先温泉

 湯治で有名な宮城県白石市の鎌先温泉は落ち着いた、静かな古い温泉場です。600年ほど前に農夫が鎌を持って畑仕事していたらその鎌の先で温泉を掘り当てたのがその名の由来とされています。蔵王山への中継地点に位置しているので、蔵王連山の山懐ともいうべき場所です。この鎌先温泉の少し上にこけしで有名な、通称「弥治郎集落」があります。


美しい黄金色の稲の絨毯

 弥治郎の正式な所在地は、宮城県白石市福岡八宮字弥治郎。数あるこけしの中でも「かわいさ」では筆頭格の「弥治郎こけし」が昔から作られているところです。
 とても空気の澄んだ9月の後半にこの地を訪問しました。この弥治郎の入り口には「彌治郎木地こけし発祥之地・伝統三百年記念碑」と彫られた石碑が立っています。昭和54年、西暦に直しますと1979年に建立されたものです。その300年前ということは、1679年(延宝7年)あたりからこけしが製作されてきたとこの石碑は示しているのです。それだけ古い歴史をこけしが持っているということです。事実であるならば、それだけでも大変大きな意味を持っていると思います。


弥治郎こけし三百年記念碑

山神社への参道

山神社

 集落を抜けて少しゆくと左手にかつての「こけし神社」とされた「山神社」があります。こけし神社は少し上のこけし村に分祠されたそうです。しかし元のこの山神社の雰囲気の方がはるかに良い。社殿まで長く細く続く古い石段がなかなかいいです。もともと「こけし神社」なるものはなく、山神社に一緒に木地師の祖として平安時代の惟喬親王(これたかしんのう)を祀ったのがその始まりと考えられますが、今度はそれを単独で独立させたようです。しかし木地師の祖は惟喬親王ではないこともはっきりしています。弥生時代前期とされる奈良の鍵・唐古遺跡から轆轤(ろくろ)で挽かれた作品が発掘されていますから、弥生時代前期にはすでに木地を轆轤で挽いた歴史があり、製作されたものもレベルが高いことが確認されています。また法隆寺などに残されている奈良時代の称徳天皇の770年に製作された「百万塔」も惟喬親王以前の木地轆轤作品として、きちんとした歴史性と美術性を持った優れた遺品として有名です。
 さて、この山神社は中をのぞいて見ると、薄暗い中に「大山祇神社」(おおやまずみじんじゃ)という文字が見えます。大山祇神社は瀬戸内海に浮かぶ島にある古社で、かつては一遍上人の祖父である河野通信が義経に味方して平家に勝ったお礼に奉納した国宝大鎧で有名です。もともと大山祇神社は素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀った社で、製鉄の神、豊穣、豊かさのシンボルとされ、子孫繁栄の神でもあります。木地師は轆轤を使って、鉋(かんな)で木地を挽くわけで、鉋を作る高度な技術である製鉄と深く関係しています。
 山神はヤマノカミともサンジンともいうようです。戸川幸夫氏の「マタギ 狩人の記録」を読むとマタギ(東北地方の特殊な伝統を持つ狩人の呼称)は「ヤマノカミ」といい、鉱山関係者は「サンジンサマ」といったとあります。その本によると、山神は女神であるという説もあるといいます。ヤマノカミはもともと女房、一家の主婦を指すことばでもあり、山は古来豊穣、多産、豊かさをあらわすとされます。母なる山懐でもあるわけです。考えれば不幸にして間引きされた女児の魂が還る母なる山懐としての山神社はこけしを祀るには最適の場所のようにも思えます。

 今回は弥治郎こけしの長老ともいうべき新山学さんを訪ねました。昭和5年生まれといいますから今年で84歳ですが、とても元気で轆轤挽きもかくしゃくとしておられました。2,3枚写真を撮るほんのわずかな間に丸くてかわいいコマを挽いてくれました。笑った顔がとてもかわいいおじいちゃん。あっという間にコマを挽いて絵付けをされた手際は84歳とは思えないものでした。最近は山のマムシを捕まえて「マムシ酒」を造って飲むのが楽しみのようです。これが84歳の元気の秘訣なのでしょうか。


轆轤を挽く新山学さん

撮影の合間に製作してプレゼントしてくれたコマ

 弥治郎集落では新山姓が多く、古くから名工を数多く輩出してきました。そして新山学さんは、かつては出来上がった作品を木地屋の女房たちが風呂敷に包んで鎌先温泉に行商に行ったことを話してくれました。しかしそれはおそらく大正、昭和の時代のことだろうと思います。もっと古くは湯治に来た農民たちが水子や間引きの供養に木地師に作ってもらった「こけし」を源泉の賽の河原や蔵王の賽の河原に供養したものと考えられます。新山家の本家では代々の工人の位牌はこけしの姿で伝えられていると学さんは話してくれました。こけしが位牌代わりに伝えられているとしたら、それは供養であり本来の姿がこけし工人の先祖から伝えられていることになります。それもこけしが供養の意味を持つという大きな歴史的資料といえます。

 弥治郎のこけしの頭部の多くは同心円の輪文様で、仏像の光背を模範として描かれたと考えられます。また頭の額のあたりに写真Aのような形が見受けられます。これは他には見られない弥治郎系こけしに独特のもので、写真Bの観音菩薩の頭髪の生え際の髪型に非常によく似ています。


A 佐藤伝喜作

B 観心寺・如意輪観音菩薩坐像

 また佐藤春二のこけしに見られる蝶文様はまさにギリシャ神話に登場する蝶そのもので、よく人の魂や死との関連付けがなされる生き物です。死者の魂であるとか、あの世からの遣いであるとか、蝶を霊的な存在としてみなす神話や伝説は世界のさまざまな国で見られます。日本でも、彼岸やお盆には死んだ人が蝶の姿で帰って来るといういい伝えがありますし、キリスト教では蝶は復活の象徴とされ、ギリシャでは魂や不死の象徴とされ、神話で愛の神エロスの妻となったプシュケー(psycheはギリシャ語で魂の意味)は、絵の中では蝶の羽根を背中につけています。

 
佐藤春二こけしに見られる蝶文様

 佐藤春二はこけしに、人間の魂をあの世に無事に届けてくれるとともに復活・再生のシンボルである蝶という動物を描いています。これはなぜでしょうか。これもやはり水子や間引きされた女児の供養と復活のための慰霊の絵の影響だと考えられます。古来、復活・再生のイメージの動物は蝶、蜻蛉、蝉、蛙、蛇などが主なものですが、蝶は岡山県の姫路城主、池田家家紋である「揚羽蝶」で有名で、再生と不死、長命富貴をあらわしており、蜻蛉も同じですが、蜻蛉は別名「勝虫」(かちむし)とよばれ戦に勝つ縁起の良い動物として重んじられたことから戦国時代の兜の前立によく使われました。また鎧の下に着る着物に蜻蛉の姿が一面に染められた服を筆者は何回か見たことがあります。勝負に勝つこと、長命富貴が強調されますが、基本は再生・復活を願ったものでしょう。

 春二こけしの蝶は弟子の井上ゆき子に受け継がれています。井上ゆき子はとてもすばらしい工人で、その描くこけしの顔は気高くまさに仏像の域に達しています。それを現在、娘のはる美さんが受け継いでいます。


左3本は佐藤春二、隣は井上四郎、右2本は井上ゆき子のこけし

蜻蛉は井上ゆき子のこけしの背面に描かれています

 以前書いたように、私が思うに「こけし」はもともとの仏教美術の領域のもので、江戸時代が終わると温泉の土産に姿を変え、玩具として再評価されたものですが、民芸とか木製玩具、おもちゃというジャンルにしておくには忍びない感じです。これまで私の連載をお読みいただいた方にはすでにお分かりのように、私は「こけし」を民芸ではなく、その造形、文様などから考えるとすぐれた仏教美術、仏教民俗学的な領域のすばらしい美術品、遺産と考えています。
 「民芸論」は柳宗悦(やなぎむねよし)や濱田庄司や河合寛次郎、バーナード・リーチらによって始められた運動ですが、一つの美術「論」とするには民芸は区分けがあいまいで、庶民のための安価な作品としての「民芸」を提唱した本人である濱田庄司や河合寛次郎は富裕な生活をおくっており、自分たちの作品を高級美術品に匹敵する大変高額な金額で販売したため、北大路魯山人に鋭くその矛盾を攻撃され、途中で民芸運動が空中分解しそうなくらいのダメージを受けました。そのいきさつは次の魯山人の著作に詳細に書かれてあります。(五月書房発行・北大路魯山人全集に収録の「柳宗悦の民芸論をひやかすの記」は民芸を本当に愛する人たちにとっても、真の民芸の姿を知りたいという人たちにとっても必読の書といえます)。その一端は、柳たち民芸論者が貴族や富豪であり、上から目線で民衆・庶民を「貧乏人」、「土百姓」、「焼物は下賤な人間のすることにきまっていた」などと書いていることを考えると、柳は庶民ないしは民芸を生んだ人たちをどう思っていたのか疑いたくなります(いずれも柳宗悦の著作「喜左衛門井戸を見る」から引用)。
 民芸という言葉のあいまいさ、用の美を重んじはしますが、高額な美術品を民芸としたり、桃山時代の大名茶人や豪商茶人たちが愛好し、現在国宝に指定されている「大井戸茶碗」、別名「喜左衛門井戸」をなんと民芸の最高の作品と評価したり、朝鮮の李朝白磁の白色を朝鮮民族の哀しみの色としたため、韓国の研究者のみならず国内の研究者からも非難されました。それはきわめて感覚的、感情的であいまい不明確な領域のものであったからです。


筆者が湯飲みとして使っている魯山人作の織部向付と使い込まれた民具「木槌」

 私は「民具」を規定するとき「生活に必要な最低限の道具類」としています。ところが国宝という超高額な茶道具を民芸の最高傑作とするあたりに、柳の民芸理論は大いなる矛盾を抱えているのです。日本で「国宝」に認定されている井戸茶碗が韓国では、どこにでも、いたるところにでもある安物茶碗と同じだという柳の主張に至ってはあきれるほどです。どこにでもある茶碗が国宝になる訳がありません。そうした民芸「論」としてのあいまいさから「民芸」は現在衰退の一途をたどっているように私には思えます。
 東京の一等地である麻布の洋館に住み、貴族的な豊かな生活をおくる柳から見れば、貧しき庶民の生活は経験したことの無いまったく珍しい世界であり、驚きの連続だったに違いありません。その貧しく質素な庶民の生活で使われた道具の中に「美」を見つけたのが「民芸」であるのです。それが日ごろから難解な「古美術」とその世界が持つ貴族性や独自な金銭感覚に反発を持つ人たちに「分かりやすい庶民の美」として一時期、受け入れられたにすぎないのです。
 こけしは現在「おもちゃ」として、民芸品として扱われていますが、いま述べた民芸の衰退がこけし工人の生活を圧迫しているように思えてなりません。
 この連載が始まって私は一貫して述べていますように、まさに仏像に使われる文様や深い仏教思想を背景とした文様から、出現当時は仏像と同じ役割(供養)を担っていたのではないかと思っています。こけし工人は仏師あるいは仏教美術作家となっていた可能性はあながち否定できません。私は今回のこけしの取材をするにあたり、工人に電話や直接訪問したりしましたが、廃業、こけし作りは現在止めているという方が結構いました。原因は「こけし」が民芸品となり、価格もきわめて安く、経済的に生活しにくくなりつつあるからではないかと思っています。こけしは玩具だから安くあるべきという民芸の理屈が逆にこけし工人を苦しめているように思えてなりません。数多く残されたすばらしい「こけし」は本来の仏教美術の地位を再び獲得して、伝統ある、本来あるべき評価を受けねばならない貴重な日本の文化遺産であると私は思っています。国の保護も必要だと思います。
 作家本人がこけしは仏像であると感じているケースもあります。津軽こけしで有名な笹森淳一さんは若いころ仏師をめざしたということもあり、1993年に東京の中目黒の長泉院付属現代彫刻美術館で自作こけし展「津軽の木地仏展・笹森淳一の世界」を開催しました。このように工人自身がこけしを仏像とオーバーラップさせている方が多いのではないかと思うのです。それはもともとこけしが仏像そのものであったと考えれば、当然のことのように思うのです。


左から川越謙作、山谷権三郎、斉藤幸兵衛、佐藤善二、阿保六知秀さんのこけし

 次に書くことは、この連載で既述しましたが、大切なことです。私はこけし研究家、コレクターの中では「原郷のこけし群」のすばらしいコレクションで有名な西田峯吉さんを敬愛していますが、西田さんは古くから数々の著書を書かれています。その一冊である「こけし 伝統と美」(池田書店)の中で重要なことを述べています。
 「山の木地師が、あるとき、子どものためにつくって与えた木の人形がこけしのはじまりだといったようなおとぎ話を信ずる気にはなりません」と。この言葉はとても大事な一言です。西田さんは柔軟な思考力を持たれた方で、ご自分の好き嫌いの感情に流されず、非常に冷静なお考えを持たれたコレクターであり、研究者であったと思います。熱狂的なコレクターの中には、何が何でも「こけしが間引きの供養の暗い影を持ったものだなんてとんでもない、こけしは祝いにも使われるかわいい玩具に決まっているではないか」という個人的な攻撃的感情論に固執しておられる方が多い中で、西田峯吉さんは大変冷静にこけしを見つめた数少ない貴重な研究者であったと思います。ただ残念であったのは、西田さんには「こけしの文様」を深く研究される時間と機会がなかったことです。もしこけしの文様に研究が及んだなら、明晰な西田峯吉さんの頭脳は「こけし=間引き供養説」に傾いたと思います。

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