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インターネット公開文化講座

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東北こけし紀行

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

こけしの謎を解く 2

 
盛秀太郎の古作こけし(左)と間宮明太郎のこけし(右)

 前回はこけしを製作した木地師が山深い東北地方の温泉にたどり着いたお話をいたしました。その原因をまとめてみますと
①木地師はもともと山に原木を求めて入るため、都会から遠ざかる傾向をもっていること。
②奈良時代の百万塔製作以来、木地師たちには大きな国家的プロジェクトがなかったこと。
③神の技・製鉄という特殊技能の保持が孤高にして誇り高き木地師文化を生んだこと。
④惟喬親王伝説と特権的に与えられた菊紋がかれらの誇り高き木地文化を支えてきたこと。(菊紋は天皇家の家紋であるが、惟喬親王伝説の中で氏子狩りという全国どこの山にでも入ることのできる木地師の特権的ギルド制度の証書に押され、シンボルとなった)
⑤646年に発布された薄葬令の影響で、古墳の大きさが縮小させられたため、副葬されるべき須恵器が古墳に入れられず、豪族以外の人たちの生活の場に進出してきた。いわゆる陶磁器の普及が始まり、そのことが木地師の生活をますます圧迫していった。
⑥強度、耐久性で飛躍的にすぐれた陶磁器の普及が上記⑤の理由で急速に西から東日本に広がり、陶器、硬質・軟質土器が大量生産されればされるほど安価になっていったことが木地師をさらに山へ追い詰めたこと。瀬戸の磁器の進出は大きな影響を与えた。
⑦木地師としては寒冷地の方が木目が詰んで固く、美しい原木木地が取れることから北を目指す傾向はもともと強かった。
⑧山の中のかれら木地師の製作現場に近い温泉地に来て湯治で体を癒していた農民が土産物として購入するのに適し、椀類など安価で用途的にも適合したこと。ここに温泉と木地師が結びついたこと。
などがあげられます。

 そこで今回から、その木地師たちがなぜ「こけし」を製作するようになったか、そしてその目的とは?この点を考察することが今連載12回のもっとも大きな目的のひとつなのです。

 「こけし」という名称についてここで簡単にまとめてみたいと思います。こけしという名のつく木人形は全国各地に存在します。ところが「伝統こけし」というのは東北六県に限定されます。木地師たちが東北の山深い奥羽山脈になぜ入り込まねばならなかったかということは、本章最初にまとめたことが大きな理由になります。「伝統」とは古くから代々引き継がれて作られる技術と製品につけられる呼び名です。

 日本のこけし研究の端緒を拓いた天江富弥氏や橘文策氏の採集した方言では基本的には五つのことばの型になるといわれています。「こげす」「ぼこ」「こげすぼこ」「でこ」「きなきな」がそれです。こけし収集家で研究者の西田峯吉氏はその著書「こけし風土記」で、こけしの語源についてつぎのようにまとめています。

①こけし這子(ほうこ)の名は、厄除子如来にかたどり、疫病除けの玩具に用い略称除子(よけし)からこけしに変わったのである(「東北の土俗玩具」)。
②こけしは、小さい笥(け・かごのこと)に入れられた赤子、すなわち「小笥子」ということである(藤沢衛彦氏)。
③鳴子の古老はこげしは木形子にて木にて作りし人形の意であると申しております・・・(天江富弥氏)。
④「こけし」の語源は こげす→こげすんぼ→こげほこ→こげほほこ(ほほこは這子、赤ん坊*著者注)と遡る。
⑤こげしのこは木であり、げは削ぐに通ずるので、木を削って作るという意味になる(北岡仙吉氏)。
このように木を削って作った人形と解釈する説が多いが、つぎのようなものもある。
⑥播州では東京でいうオカッパ頭をオケシというが・・それが転じてコケシになったわけで、別に荘重な語源があるわけではない(柳田国男氏)。
⑦芥子粒のような小さい人形の意味・・(稲垣武雄氏)。

 大体以上が過去のこけし愛好家、研究者の名称に関する見解です。
こけしが湯の神に奉納されたという習俗もあり、信仰的な立場から解明しようという説もあります。湯の神は湯治の神であり、治癒の神でもあるため、それは生きる力を与えてくれる東方瑠璃光世界の盟主である薬師如来と考えられます。
 またある説ではひどい飢饉の中に生まれた女の子(男の子は労働力として育てる)は間引いたという悲しい歴史から、「こけし」は「子消す」「子消し」からきているという説もあります。こけしが女の子の顔や姿だけであることの大きな理由説明になります。楢山節考の「姥捨て」もまったく同じです。凶作における農民の生活は我々現代人には想像できないほど悲惨だったと思われます。間引きには母親だけがかかわったとはいえません。産婆や村人もかかわったと思われます。子は女の命といいます。生まれたばかりの無抵抗な我が子の命を絶つという罪の意識はいかばかりでしたでしょうか。母親の心中はまさに地獄絵そのものだったでしょう。飢饉、不作、農民一揆、姥捨て、子消し(間引き)など、農民は文字の読み書きができないことが多かったでしょうから記録もありません。伝えられなかった農村の裏面史は搾取、迫害と一揆、すなわち反抗の歴史であり、幕府への手前、大名サイドからはその事実は闇に葬られることが多かった部分です。公の歴史に名を留めることはまずなかったと思われます。凶作不作の時は過酷な「村の掟」に従わざるを得ない悲惨な農民生活が待っていたと思われます。実際に赤子の間引きが行われていた事実は資料にも多く残されています。絵馬にも母親らしき女性が子を殺している姿が描かれているものがあり、奉納された事実があります。

 読売新聞の宮城版の2010年(平成22年)11月14日(日)にはこけしについて特集しています。そこにこう書いてありました。(匿名にしました)
 「仙台の某玩具の会」会長のTさんは「『45年間、産地を歩いて古老や文書にあたったが、こけしの由来を飢饉や間引きと結びつける根拠はひとつもみつからなかったという』・・・(さらにこの記者はこうつけ加えています。「こけしには水引手という文様が描かれているが、これは祝い物として贈られた京都の御所人形や仙台の堤人形と共通する。」)さらにTさんは「こけしも庶民が子の成長を願う祝いの人形の流れをくむ」と結論づけている』
 水引ならわかりますが、水引手という文様がどのような文様なのかよくわかりません。きっと髪を結んでいるリボンの「ようなもの」のことをいっているのでしょうか。水引かどうかもわかりません。
 前にも書きましたが、飢饉や間引きなどにかかわるようなことは、文字も書けず、困窮の生活を送る農民には残すことができなかったでしょう。また各大名に禁止されている間引きを記録に残すことなど農民にはできるはずもありません。祝いの人形の流れをくむといわれますが、それならなぜ男の子のこけしがないのか?これも証明しなければなりません。おかしなことになります。御所人形も初めは祓い、厄除けとして誕生した歴史をもっています。
 わたしは残された作品、それもできるだけ古い作品をもっと詳細に観察してその謎を解いてゆかねばならないと思います。それしかこけしの謎を解くカギは現状では残されていないとみてよいでしょう。

 信仰というものはいつの時代でも心の支えであり、それは不幸な時代、不安を感じる時代、生活が脅かされる時代、虐げられる時代、罪悪を行った場合の悔恨と罪の意識が芽生えるときに生まれます。
 江戸時代、享保以後の時代は数少ない資料で一揆や凶作を証明できると思われますが、それでもその記録すら正確なものとはいえません。実際はもっともっと一揆や凶作などは多かったと思われます。一揆を起こすことは農民にとっては命がけの(死を意味する)「最後の手段」ですから、死活にかかわる、もっともひどい凶作の結果として起こる場合が多いのです。
 わたしは「こけし」を詳細に観察した結果、間引きの供養に使われたことがその誕生であると思います。それは今後、わたしが考察しうる「こけし」の表現様式が、すべてそこに向かっているからなのです。推論をいくつも重ねることで、ひとつの「結論」にたどりつき、謎が解けてゆくなら、その推論の数々は正しいという歴史家の梅原猛さんの主張にわたしは共感をおぼえます。

 さて青森で縄文遺跡、資料館で土偶を観てきました。土偶については本講座の過去の連載で「縄文土偶」について述べていますので前回のURLをクリックして読んでみてください。結論は「土偶は難産で亡くなった母親と子供を弔う目的で作られた」というものでした。
 わたしは本稿を書くにあたって、こけしに関しては過去の研究者・愛好家・コレクターの書籍や意見を参考にはしますが、むしろ自分の眼で「こけし」をしっかり観て、実際に産地を訪ね、耳で聞いて学んだことを重視して各地方のこけしそのものを再度、詳細に観察し、こけしが作られた本来の目的にできるだけ近づきたいと思います。

 そこで最初にやってきた青森では津軽系こけしを観察してみることにします。津軽系こけしの産地として一番有名なのは黒石市の「温湯温泉(ぬるゆおんせん)」の盛秀太郎氏と13代続く木地師の家系である斉藤幸兵衛氏のこけしです。かれらが最初にこけしを作り出したのは盛さんが大正5年(1916年)、斉藤さんもほぼ少しあとで始め、今はすでにともに故人です。(以後こけし工人の名前は敬称略)


盛秀太郎のさまざまな古作こけしの数々 純朴・素朴の世界(筆者所蔵品)

斉藤幸兵衛の古作こけし(筆者所蔵品)肉髻もあり、
まさに観音菩薩そのものの美しい姿をしています。

つぎに登場するのが間宮明太郎と正男親子、山谷権三郎、島津彦三郎、三上文蔵、佐々木金次郎、長谷川辰雄と川越謙作のこけし(筆者所蔵品)などです。

 津軽こけしの魅力は何といってもその「素朴さ」「純朴さ」「ひなびた土俗性・泥臭さ」にあると思います。それらは一見、可愛くない「こけし」ともいえますが、それゆえにもっとも原初の姿を残しているように思うのです。わたしはこけしの魅力を知った24年前のきっかけが津軽系の盛秀太郎と間宮明太郎のこけしで、中でも間宮明太郎こけしに強く魅かれた記憶があります。
 特にかれらの初期の作品に魅力的なものが多いようです。目が黒く塗りつぶされた顔のこけしは不気味です。丸い目の中には瞳がありません。川越謙作のこけしは地蔵そのものの形で、その顔は寝ている赤子のあどけなさです。どうしてそうしたこけしが作られたのでしょうか。寝ているというのは、永眠、すなわち死んだ子供とも考えることも可能です。


あどけなく眠るような川越謙作のこけし

縄文時代のハート型土偶写真(筆者所蔵)
 
埴輪にみるくり抜かれた眼(東京国立博物館)

古来、眼が閉じたもの、黒く塗られたもの、くり抜かれた眼、異常に大きな丸い目は死者の眼との関係を物語るものが多いようです。上記の土偶にしても、埴輪にしてもすべて死者に副葬されたものです。ハート型土偶の大きな丸い眼は歴史学者の梅原猛さんのいわれる、帝王切開できない時代の出産の苦しみ、産めない死の苦しみの、あまりの断末魔の苦しみのために目をむいて亡くなった女性の表情ともいえます。
 ハインリッヒ・シュリーマンがトロヤの遺跡で発見した黄金のマスクは死者の顔にかぶせられたものですが、眼はかたく閉じられています。津軽のこけしではなく、後に述べる山形のこけしと思われるものにつぎのような作品も見受けられます。


眼の黒い不気味なこけし(筆者所蔵)

 ねぷた祭りは古くは征夷大将軍・坂上田村麻呂伝説に由来するという説もありますが、今は江戸の元禄ころ七夕まつりの松明流し、精霊流し、ねむた流しが転化してできた祭り説が有力のようです。「ねむた流し」は日本各地でみられます行事で、厳しい農作業の夏期に農民を襲う睡魔を追い出し、厄災、睡魔を水に流して村の外に送り出す行事のひとつでこの「ねむた」が「ねぶた」「ねぷた」に転化したという説が有力です。ここにも農業の辛さ、厳しさのルーツがみられます。ねぷたにみられるダルマ絵も仏教、禅宗の開祖である達磨に由来するわけですから、この絵も仏教と深く関係しています。


盛秀太郎の作品にみられる「唐草文様」、「ねぷたダルマ絵」そして半月形文様

 また「唐草文様」ですが、唐草はもともとエジプトのロータス文様が始まりとされます。蓮の花を死者に供養するレリーフは、エジプトを最大の国家にしたラムセスⅡ世の父であるセティⅠ世の墓に初期の姿がみられます。下の写真には死者に手向ける蓮の花を持った姿、供養する姿は多くの墓のレリーフに描かれています。


第18王朝、アメンヘテプ3世から4世(イクナトン)の時代に宰相でテーベ市長も兼任し、
晩年には神官団長もつとめたラモーゼの墓の壁画レリ-フより
蓮の花や花束を持ったり、頭に飾ったりする葬列の貴族たち
写真:Kurt Lange und Max Hirmer "Aegypten" Archtektur Plastik Malerei
in drei Jahrtausenden より掲載

 蓮はインドではなく、まして日本でもなく、古代エジプトで宗教的に使用された花であり、その流れから唐草文様が生まれます。ですから仏教伝来間もない時期に生まれた法隆寺の金堂・釈迦三尊の光背にみられる日本最古の唐草も、エジプト、ギリシャで生まれた文様であり、もともとは死者の追善に使用されたものが原点なのです。この盛秀太郎のこけしのS字唐草もそう解釈すべきであろうと思います。縄文晩期の作品に影響を与えた唐草は、仏教以前のものですから、壮大な東西交流史の中で、ギリシャ、エジプトから伝来してきたと考えられます。


青森県是川中居遺跡出土の縄文壺の唐草文様

盛岡市手代森遺跡出土の土板護符に描かれたS字スパイラル(S字唐草)

 縄文土器の名づけ親、エドワード・S・モース博士はこれらを護符(悪霊から自分を守るお守り)としたが、現在もその説が支持されています。
 また一見、縄文の文様にみえる半月型の文様ですが、これはむしろ飛鳥・白鳳時代の金銅仏の衣文にみられる「半載九曜文」に近いようです。連珠とも考えられます。


(東京国立博物館所蔵)

 これらも仏像に表現される重要な文様です。こうした蓮を中心とした唐草文様、半載九曜文、連珠はともに仏像などに描かれる仏教の代表的文様です。


斉藤幸兵衛の菩薩型こけし(筆者所蔵)

 やさしく庶民の願いをかなえ、救い、導いてくれるのが菩薩です。斉藤幸兵衛の菩薩型こけしには肉髻(にくけい)があります。肉髻は如来、菩薩に特有の姿で、頭が2段に盛り上がっています。これも仏像の大きな特徴のひとつです。

 これはまさに仏像としての姿も兼ね備えている、というより仏像そのもののように思います。どうしてこけしに地蔵型や肉髻のある菩薩型があるのでしょう?これも大きな疑問です。こけし発生の思想的背景に仏教、仏像が大きく関係していたとしか思えません。


昨年の内閣総理大臣賞受賞の阿保六知秀さんの斉藤幸兵衛型菩薩こけし
まさに仏像そのものの優しさと品格、格調の高さを感じます。

 下記の山谷権三郎の純朴な帽子をかぶったこけし。目が丸く輪のようで、縄文ハート型土偶と間宮明太郎のこけしに通ずるところがあります。


間宮明太郎こけしと息子の正男の「地蔵型こけし」

津軽こけし館での阿保六知秀さんと筆者 
バックは日本一大きな盛秀太郎型こけしと達磨

阿保六知秀さん(故・佐藤善二の弟子)は突然訪ねたわたしを快く迎えてくれて、しかもわたしの無理な注文であるこけしを晩酌もせず家で3本、翌日までに頑張って仕上げて持ってきてくれました。純粋で、熱心な阿保さんに敬意を表したいと思います。

 菩薩型こけし、地蔵型こけし、眼の黒いこけし、丸い眼のこけしなどの数々がでたところで、疑問はますます深まる一方です。次回は場所を変えまして、一歩踏み込んで漆のふるさと、浄法寺と瀬戸内寂聴さんゆかりの天台寺と、平安鎌倉時代のすばらしい仏像、地蔵菩薩について考察してみようと思います。こけしの謎を解く旅はまだまだ始まったばかりです。

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