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信天翁(アホウドリ)喫茶主
医学博士 山中 直樹(宗直)

平野啓一郎作『最後の変身』

月刊誌「新潮」9月号表紙

純文学作家・平野啓一郎(本シリーズ第50回)が現代社会の課題'引き籠もり'を取り上げた小説「最後の変身」を月刊誌「新潮」9月号に発表した。「高瀬川」に続く現代の人間関係とコミュニケーションの在り方が注目だ。

世間一般で言う引き籠もりが学校や社会等で問題だ。しかし、小説では「あらゆる'今ふう'」の平凡な人達における'引き籠もり'を考えさせる。習俗的引き籠もりと言える。
多くの人達は社会的に振舞うよう「どんなときにも明るく、カラ元気に満ち、何とも言えず軽薄で、無頓着な」変化する外観の自分が在る。同時に、内側で内部の自身を持つ。

学校や社会では、「異質な感じ」を与えないために'偽装''見かけ''仮初めの外観'で振舞う。「集団、数の力」で「心強く」「強者」で、取り合えず「安心」となる仲間を装うためだ。軽薄な一見「民主主義の申し子体質」だ。
一方、現代は「俺が俺がであり、俺でなければならない」「絶対に個性的でなければならない」と求められるようになった。

しかし、「本当の俺」のない「惨めな劣等感」を持つ「俺達」は「差異」「個性」に対して「崇拝の対象」ではなく「憎悪の対象」とする。「仲間である」ために「仲間でない」人を排除やイジメの対象とする。「凡庸で無害」な「見かけの外観」を求めるのだ。「差異、個性を尊重すると言う精神が完全に欠落している」からだ。
それ故に、'内面''中身''俺自身でありたい'内なる自分に対して'仮初めの外観'を装うのだ。つまり、社会に対して'引き籠もり'と言うことになる。

逆に、'引き籠もり'の積極的な悪用も一般的だ。挨拶は愛想良く、国民、消費者のためにや患者さまのためにとよく言う外観の人達の方が、むしろ、自分勝手、エゴ追求の内側を持つ人が多いのでは。表ニコニコ、裏蹴っ飛ばしの腹黒い'本当の姿'が覗く。
「個性と呼べるのなら」誰にだってある。しかし、問題は「差異と言うものには、何時も必ず優劣が忍び込んでいる」ことだ。「個性と言うものをそういうふうに理解」してはならない。「人と違うということが」「人より優れている」と勘違いしてはいけない。「対等の立場で、それぞれに違いがあると言う考え方」を持つことが必須なのだ。

平野師の言う「対等の立場での違い」の尊重は忘れてはならぬ提言だ。個性は『価値観による選択の自由』の基に、人がそれぞれの場面で外観、内部の自身のいずれにしろ自分で選択を続けた結果の現れだ。選択には自己責任がある。本当はと言い訳で自分を正当化する『自己愛の幻想』から目覚める脱皮が求められる。 習俗的'引き籠もり'からの「変身」が今日の閉塞感から脱出するために必要だ。
私は社会的には出来るだけ引き籠もりたいが、習俗的な'引き籠もり'は御免だ。
『市中の山居』で一期一会の喫茶のエ(会)を楽しむのが人間味ある個性を成熟する。

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