愛知県共済

インターネット公開文化講座

文化講座

インターネット公開文化講座

旅・つれづれなるままに

細矢 隆男

第18回 鶯御陵 (うぐいすのみささぎ)と若草山の山焼きについて


鴬御陵(うぐいすのみささぎ)

若草山の山焼きと花火・2022年1月

 若草山の山焼きは、山頂にあります鶯塚古墳の霊を慰める祭祀から出発したのではないかとの説をこの古墳を調べた時に知りました。
 そう考えますと、ほぼ奈良全域を見下ろす大型の前方後円墳ですから、古墳時代前期から中期の大変な権力者の古墳と推定されます。
 被葬者(葬られた人物)ですが、卑弥呼説もありますが、かりに卑弥呼ならやはり三輪山、巻向(まきむく)遺跡あたりの方が彼女にはふさわしいし、現実に三輪山に近い箸墓古墳が卑弥呼のものと推定されています。しかし卑弥呼は実在したかどうかも前から疑問視されていますし、いきなり若草山の頂上に飛ぶのはやはり唐突な感じであり、無理な感がします。

 卑弥呼の卑はいやしいという字ですから、当時外交のなかった遠方の国や敵国は中国外交史上、卑しい名前を付けられることはあり得ましたが、後漢時代後期にあたる時代の魏志倭人伝にしか描かれていない「卑弥呼」は古事記、日本書記には登場しないことと、その後の日本の神社や資料にもどこにもその名は登場しないため、「倭国の女王」としての卑弥呼はいなかったとその存在を疑う説はかねてからありました。別人説や先の日本を貶める理由から字が良くないから名前を変えたか、使わなかったという説もあり得ます。「卑」などという名前をありがたがる民族などいません。


奈良のシンボル若草山から見る鹿と奈良市街地

 日本には文字らしい文字がなかったため、記録もありませんし、伝承も口伝であり定かではありません。大化の改新(645年)の蘇我蝦夷の自害の折にそれまでの歴史を記した「天皇記」が燃失、「国記」は難を逃れはしましたが、中大兄皇子(後の天智天皇)の時代に所在不明となりました。私は法隆寺西院伽藍の前身である若草伽藍は中大兄皇子が釈迦三尊像、四天王像を新しい金堂に運ばせた後に放火し、消し去ったと考えていますから、あるいは彼の将来の政権にとって都合の悪いことが記されていたため、これも彼自らが焼いた可能性も残ります。そうした貴重な書物の中に記録としてあったかもしれませんが、今となっては他に伝承もないし、手がかりがありません。


法隆寺西院伽藍

 かつて九州の装飾古墳のすべてを、古墳の研究に熱心で、最も古い日本骨董学院の会員さんのお一人の方と一緒に私の車で見て回った時に、熊本の平野を見下ろす山の上に築かれた装飾古墳、千金甲古墳を見て、やはり権力者は死後も自分が築いた土地を見守っていたいのだなぁとつくづく思いました。


霧の三笠山山頂の古木

 装飾古墳見学には教育委員会から許可をもらっていましたから、他の装飾古墳の見学に時間を取られたため、かなり暗くなりつつあった夕闇の中で山頂の林の中の石室の上から錆びた重い鉄の蓋を二人で開けて覗き、カメラを突っ込んでフラッシュをたき、中を撮影した思い出があります。鴬塚古墳周囲は整備されていますが同じような山頂の感覚があります。


宮内庁により磐之媛(いわのひめ)の古墳とされている前方後円墳

 あのように奈良を見渡せる高く、最も有名な若草山の頂に古墳を築く以上、国見をする最高権力者、すなわち天皇あるいはその皇后であることは間違いありません。時代性から仁徳天皇の皇后、磐之媛(いわのひめ)の古墳ともいわれています。磐之媛の古墳は数ヶ所あり、私の住む秋篠町の近くの佐紀町にもあり、私も参拝させていただきましたが、2ヶ所それも仁徳天皇皇后の可能性のある古墳が奈良に3ヶ所もあるのかといぶかしく思いましたが、こちらの2ヶ所は調べましたら明治時代に決められたもので、どのような根拠でそう決めたのか分かりませんが、考えて宮内庁も決めかねた、すなはちわからなかったのだと思います。

 エジプトの王墓とミイラは発掘され、DNA検査もきちんとなされ、家系も繋がり、大半の人間系図がハッキリしました。それに比べ日本は極めて後れています。

 若草山を入れますと3ヶ所になり、いかにしても問題があります。私の見る限り若草山の古墳の方が地理的にも、時代的にも磐之媛にはふさわしく、時代の整合性が高いと思います。天皇陵であれば、古来もう少し整備されるはずで、鴬塚は今はかなり荒れていますから、宮内庁では天皇陵との認識はないようです。

 三笠山(若草山)は位置からいえば奈良では最高の山ですから、仁徳天皇皇后と考えればなんとなく合点が行きます。平安時代のインテリ女性清少納言が枕草子で、みささぎ(御陵)は鴬陵が一番と書いています。鴬は男性、特に偉大な大王、天皇にはふさわしくない名称ですから、やはり女性すなわち皇后クラスしか考えられません。

 清少納言は仕えた中宮定子の代参の可能性もありますが、奈良の壷坂寺(南法華寺)、長谷寺、誓願寺などに頻繁に参拝するため旅していますから、いずれかの参拝帰りに、拝火教の伝承のある二月堂裏山の若草山の頂上に、当時から「鴬陵」といわれていた磐之媛の古墳にお参りし、素晴らしい眺めを楽しんだ可能性は高いです。


山焼きと花火 2022年1月

 私は個人的な見解として、若草山(当時は三笠山)という山に古墳が築かれたことから被葬者は女性であると考えています。山は古来女性のシンボル的存在であり、多産、豊穣、豊さの象徴とされてきました。昔は結婚した女性を「山の神」と呼び、将来の多産、子孫繁栄を期待しました。

 山焼きは火の神、外来の拝火教、すなわち二月堂のお水取りのように松明で魔を祓うという宗教的な意味合いがあったのではないかと思います。拝火教はイラン周辺、古代ペルシャを起源とする「ゾロアスター教」です。空海の真言密教の「護摩焚き」もまさにゾロアスター教の流れをくむ宗教儀式であり、清少納言が参拝に訪れた奈良の長谷寺の2月の祭「だだおし」も鬼が大きな松明を持って走り回ります。厄除け、魔神退治のような「火」の持つ霊力、特別な力のご利益を得んがための行事が重なっているように思います。


真言密教の護摩焚・奈良・東明寺にて2022年2月

 山に火を放ち浄めることも同じ思想からです。夜と火と酒と太鼓などは人の魂を高揚させます。祭はその頂点に位置しますが、まさに神が乗り移ったようなハイな気分になります。古代人の仏教崇拝の眼にはなおさら「火」は特別な煩悩を燃やし尽くし、消す「神」の姿として写ったのでしょう。


山焼き

 その火で山の斜面を焼き浄め、嫉妬深かったといわれる仁徳天皇の后の磐之媛の霊を慰め浄め、ひいては偉大な仁徳天皇を称えたというのが若草山の山焼きといえるのではないかと、私は個人的には考えています。

 山頂へは下りを歩くことを考えるとタクシーが一番便利で、約1500円プラスドライブウェイ通行料約500円かかりますが、眺めもよく、歩けて見所が楽しめます。是非一度、若草山と鶯陵を訪れて、山頂から奈良のまちを眺めてみてください。新たな歴史に遭遇できるかもしれません。山頂から下り、山焼きの斜面を見ながら二月堂に至るのも、位置関係が分かり良い体験になるでしょう。是非お勧めいたします。

写真撮影・著者

※こちらをクリックしますと同じ著者によります「掌の骨董」にリンクできます。


旅・つれづれなるままに
このページの一番上へ