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インターネット公開文化講座

文化講座

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骨董なんでも相談室

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

西洋アンティーク紀行 第9回 「編まれた宝石、ベルギー・レースを楽しむ」

 ジュ・ド・バル広場の蚤の市をたっぷりと楽しんだ後は、オート通りを通ってグラン・プラスに向かいました。通りに並ぶインテリアやアンティーク、雑貨の店のウィンドウは、派手な自己主張とは無縁ですが、どれも奥ゆかしい魅力のあるディスプレーです。

もう2ブロックほどで目的地に着くあたりで、可愛いラッセルテリアの散歩をしていたおじさんが、グラン・プラスに行くのなら、自分の家も同じ方向にあるからついて来いと得意げに先頭を歩き出しました。そして、自分の家はベルギー・レ―スの店だから良かったら寄って行ってくれ、と言うのでやはり客引きか...と身構えて、中には入らずに店を通り過ぎるつもりでした。しかし、おじさんは特に引き止めるでもなくそのまま愛犬を連れて家に入ってしまったので、ちょっと外からウィンドウの中のレースを物色してみました。観光客向けのレースやお人形を売っているお店です。それに、おじさんが道すがら説明していたとおり、「ここは、1873年7月10日にポール・ヴェルレーヌがアルチュール・ランボーを拳銃で撃った現場となったホテルがかつて建っていました」という表示が、外壁に貼り付けられています。


「ランボーの死後100年を記念して、ヴェルレーヌとの有名な喧嘩の現場に掲げられた碑文」

二人とも19世紀の象徴主義を代表するフランスの詩人です。既婚者であったヴェルレーヌは、若く美しき天才ランボーに心を奪われ、ヨーロッパを二人で放浪します。ヴェルレーヌを連れ戻そうとした妻もあきらめて離婚したほどです。しかし、破天荒な二人の詩人は痴話喧嘩を繰り返し、このホテルでは、ヴェルレーヌが発砲した弾丸がランボーの左手首にあたり、更にもめて警察沙汰となります。2年の刑期を経て出所したヴェルレーヌはランボーと再会しますが、再び大ゲンカとなっておのおのの道を歩みます。その後現在のエチオピアにあたる場所で武器商人となりそれなりに成功したランボーですが、癌に侵されてマルセイユに戻り、37歳の若さでこの世を去ります。


「かつてランボーとヴェルレーヌが滞在したホテルであった建物。
今はRose's Lace Boutiqueというレース屋さん」

パリのモンマルトルのような特別な場所を除いては、まだゲイ・カップルが大っぴらに付き合えなかった時代ですが、この二人の関係は周知だったようです。グラン・プラスからちょっと入ったこの静かな通りに、泥酔した恋人たちの怒号や2発の銃声が鳴り響いたのかと、その後幾度も塗りなおされたであろう何の変哲もない建物を眺めているうちに、ちょっと入ってみたくなりました。アンティークのベルギー・レースを探すのも今回の目的の一つでしたが、新しいものでもお土産にはなります。


「現代もののテープ・レースの敷物はお土産用に」

Rose's Lace Boutiqueに入ると、ラッセルテリアを連れたおじさんの姿はなく、奥さんが店番をしていました。リネン地に手縫いでプリンセス・レースを縁にあしらった、楕円形のシンプルなテーブル・センターが気に入り、見せてもらいました。スカラップや花、葉状にカーブさせたテープ状のレースをチュール(ネットのような網目状のレース地)の上に縫い付けたスタイルで、あらゆる階層がレースを身に着けたがり需要が増した19世紀末にベルギーで開発された技法です。イギリスで機械によるチュール織りが普及するまで、元々はブリュッセルを中心に、テープ部分も基礎のネットもボビンかニードルで手作りされ、ベルギー王家の中でもレオポルド2世の王妃マリア・ヘンドリカに愛されたことから、「プリンセス・レース」と呼ばれることが許されたようです。


「ポワン・ド・フェの繊細なボーダーのハンカチ」

普通のお店では蚤の市のように安くしてもらえるものではありませんが、それでも値引きを迫る観光客が多いのか、「定価!!!」とフランス語と英語で書かれた表示が店内に貼られています。先ほどご主人と道でお会いして...と水を向けると、2階から下りてきてくれました。ランボーとヴェルレーヌの事件や弾痕の話などですっかり和んだところで、旦那さんに助け船を出してくれるように頼んでみましたが、「価格の事は妻にまかせているので」と苦笑いで逃げ腰です。「ところで、アンティークのレースはないの?」と再び話題を転じると、小さなハンカチを奥から出して見せてくれました。一見地味ですが、お土産物と比べると遥かに細かいボビン・レースの縁取りが愛らしいのです。


「レースやお人形が並ぶRose's Laceの店内」

レースの歴史は紀元前のエジプトにまで遡れますが、一口にレースと言っても種類は様々ですので、その定義により起源も異なってきます。16世紀にもなるとイタリア、ベルギー、フランスでリネン糸のレースの技法や模様が発展しました。ヨーロッパの王侯貴族や僧侶の服飾の必需品となり、富と権力の象徴でした。高価で貴重なレースは、流行の変化や傷みに応じて仕立て直されたり、組みなおされたりして大事に使われました。今では周りが傷んでしまったアンティーク・レースでも、手の込んだ花柄のモチーフ部分だけを抜き出して、ガラスの中に入れた小さなブローチやペンダント、額が売られています。私が見せてもらったハンカチは、状態も大変良いです。ベルギー西部の町バンシュ(Binche)では、16世紀初頭に繊細な連続模様のボビン・レースが有名でしたが、その後流行の変化と共にすたれてしまいました。19世紀初めにイギリスでレースの機械編みが開発されたのを皮切りに、ケミカルレースなどの革新的な技術の進歩が続き、レースの大衆化により、高価な手編みレースの職人が減り、質も低下してきました。ところが、世紀の変わり目になると、過去の手の込んだレースへの回帰が起こり、アンティーク・レースを求める人たちが増えました。バンシュの複雑なボビン・レースが「ポワン・ド・フェPoint de Fee」(フェはフランス語で妖精)という名で、更に繊細に生まれ変わったのです。このハンカチも20世紀初頭のポワン・ド・フェです。先ほどの現代物と併せて買うことで、奥さんもすっかり気をよくして安くしてくれました。これも何かの縁です。


「1998年にユネスコの世界遺産に登録されたグラン・プラス」

この地味な一角から僅か1ブロック先に、ビクトル・ユゴーが「世界で最も美しい広場」と驚嘆したグラン・プラスがありました。確かに、その1世紀後にジャン・コクトーも「絢爛たる劇場」と称しただけのことはあります。16世紀にはプロテスタントが火炙りの刑に処せられ、17世紀にはフランス軍の砲撃により、市庁舎など一部を残して大部分を破壊された広場ですが、美しく再建されています。特に面白いのが商業者間の互助組合として結成され、それぞれの業種やその守護聖人などを表わす意匠を凝らしたギルドハウスです。もう組合は解体されましたが、玄関の上や屋根の上にかかげられた当時のシンボルを一つ一つ確認しながら歩く人々で賑わっています。番地がなかった当時、それぞれの建物には名前がついていました。現在は番号がつけられており、建物名と照合できるリストの載ったパンフレットがホテルなどに置いてあります。


「1852年にビクトル・ユゴーが住んでいた、という碑文や、
レース屋さんを示すさりげない看板のあるMaison Antoineの入り口」

例えば、26-27番「鳩の家Pigeon House」は塗装職人の組合の建物でした。その後、「レ・ミゼラブル」の作家として有名なビクトル・ユゴーがナポレオンからの弾圧を逃れてベルギーに亡命中、ここに滞在していました。政治家でもあった彼はフランスを独裁していたナポレオン3世を痛烈に批判した「小ナポレオン」をブリュッセルで出版しました。今、27番地はチョコレート屋さん、そして26番は「メゾン・アントワーヌMaison Antoine」という上質なレースを売る店となっています。入り口には、手芸中の女性を模ったモチーフが看板代わりに下げられているのが目を引きます。お店の中は夢中でレースを眺める女性客で一杯です。襟飾りのレースなどを、時間をかけて真剣に選ぶ客の一人一人にお店の方が丁寧に応対しています。壁にも、ガラスケースの中にも、美しく繊細なレースがディスプレーされています。


「見事なディーテールのアンティーク・レースのハンカチの製作には、
いったいどれだけの時間が費やされたのでしょう...」

先客達が買い物を済ませ、お店が空いたころ、アンティーク・レースを見せていただきました。19世紀のものですが、最初の店で購入したものよりぐんと華麗な模様です。元の持ち主のイニシャルも刺繍されています。デュシェスDuchesse(侯爵夫人、英語読みはダッチェス)レースとローズ・ポイントの組み合わせです。オーストリア大公の娘、マリー・アンリエットが、後のベルギー国王となるレオポルド2世に嫁ぎ、ブラバン公妃となったのですが、彼女はレースの生産を熱心に支持し、その結婚式に使われた最高級のボビン・レースはデュシェスと呼ばれるようになりました。デュシェス・ドゥ・ブラバンという甘い香りのバラの品種名にもなった方です。このハンカチはデュシェスにやはりベルギーで生まれたポワン・ド・ガーズというニードル・レースの技法が合わされた、ブラッセルズ・ダッチェスとも言われるタイプのものです。他にも、指先ほどの小さなバラのモチーフが実は小さなポケットになっているレースのハンカチも見せてもらいました。そこに香水をしみこませた綿片を忍ばせたのだそうです。この美しいハンカチを胸元からのぞかせたり、手に持ってそっと振ってほのかな香りを漂わせたり、時には気になる殿方の前を通り過ぎる時にわざと落としてみたりしたのよ、と店主が説明してくれました。

1850年からレースを扱ってきた家に嫁ぎ、ご主人のお父様から現在の場所の店を引き継がれたそうです。今はお嫁さんと二人で切り盛りしています。屋根裏には、昔の素晴らしいレースや資料がたくさんあるとのことで、昔の製作途中のものも見せてくださいました。本当に気の遠くなるような作業です。


「レース屋さんの屋根裏に保存されていた昔の職人さんによる制作途中のレース。
目がチカチカしてくるほど細かいです」

「やはり制作途中のレース」

フランスやイギリスの植民地となった国々で安価に生産された手編みレースが出回るようになって久しいです。しかし、こちらのお店のレースは、すべて伝統技法を受け継ぐ、ブルージュ近郊の専属契約を結んだ職人さん達による丁寧な手仕事だそうで、「ハンドメイド・イン・ベルジアム」のタグが付けられています。


「機械編みのチュールに花のモチーフをアップリケした現代のもの。
アンティークに比べると、その差は一目瞭然。でも、気兼ねなく普段使いできます」

ベルギー北西部にあるブルージュは中世フランドルの都市でした。このフランドル地方でしなやかで白い良質な亜麻がたくさん産出されたこともあり、ベルギーは、ルネッサンス以降イタリア、フランスと並ぶレースの本場となったのです。亜麻(アマ、リネン)は麻(アサ、ヘンプ)よりもしなやかなので、薄くかつ丈夫な布が織れました。吸湿性がありながらさらりとした肌触りで光沢もある亜麻布はハンカチや下着にピッタリでした。特に純白のものは、古代ギリシャやローマでも珍重されていました。
レースはかつて宝石に匹敵する値打ちがあり、重要な輸出産業にもなり得たので、各地で新しいデザインや技法の開発にしのぎを削りました。18世紀にもなると、各地域で開発された特徴的技法がその地名で呼ばれるようになりました。例えば、チュール・レースは、フランスの中部の都市、チュールTulleに由来します。レースの技法や模様は、流行すれば他所でも直ちに取り入れられ、職人の移動によっても各地に広まって行ったので、複雑です。
レースの種類は数知れず、非常に奥深い世界です。レースについて語る時、Maison Antoineの店主もお嫁さんも本当に楽しそうで、私もすっかり引き込まれてしまいました。「レースは私の人生なの!」そうきっぱりと言う店主が気に入りました。お値段もこの店一豪華だったこのアンティーク・レースを思い切って購入し、ブリュッセルに名残惜しさを感じながらも、次の目的地、パリへと旅を続けました。ブリュッセルはとてもすばらしい街で、チョコレートもビールも食事も、骨董も、レースもすべてが思い出深いものになりました。また是非来たいと思いました。


「レースを心から愛するMaison Antoineの店主」
骨董なんでも相談室
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