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骨董なんでも相談室

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

西洋アンティーク紀行 第6回 ロンドンの博物館 大英博物館を歩く アッシリア美術について

 今回のイギリス旅行では、初めてレンタカーでコッツウオルズCotswolds地方のバイブリーBibury、ストウ・オン・ザ・ウォルドStow-on-the-Woldや、ボートン・オン・ザ・ウォーターBourton-on-the-Waterを1泊2日で巡り、とても素晴らしい、思い出深い旅となりました。特にバイブリーは古き良きイギリスという雰囲気十分でとても気に入りました。
 以前、イギリスの田舎、特にシェークスピアの故郷の街であるストラットフォード・アポン・エイボンStratford-upon-Avonやその周辺の街を旅した時にも古い民家の味わいに「民芸」の原点を見た思いでした。ここで触れておくべきは、益子焼人間国宝の濱田庄司が若き日に陶芸家バーナード・リーチBernard Howell Leachと共にイギリスを旅し、さらにロンドンから西の世界最古のカンブリア紀の大地、コーンウォールCornwall半島の突端に近いセント・アイブスSt. Ivesという港の近くに家を作り住みついたことです。そのセント・アイブスで古き焼き物であるスリップウェアSlipwareの窯跡からたくさんの陶片を見つけ、そこからスリップウェアに興味を抱いたと伝えられています。


古いスリップウェア

 スリップウェアとは、泥漿を化粧土として皿や壺などに掛けて装飾された陶器です。古くは紀元前5000年くらいからの歴史を持ち、古代ギリシャ、中国、中東、イスラム世界、朝鮮半島、イギリス、アフリカなどで制作されていたものです。中でも17世紀から18世紀ころに作られたイギリスの古きスリップウェアは濱田庄司の眼には素朴でありながら、素晴らしく美的魅力にあふれた作品として映ったのです。濱田氏は、セント・アイブスを拠点にして古代社会から伝統のある陶器・スリップウェアの研究を始め、買い集めました。
 日本とイギリスは、特に自然を大切にする文化やこだわりの強い国民性、先祖から伝わる家具や陶磁器を大切にする共通の伝統があり、歴史の深さという点でも非常に似ている点があると思われます。若き日の濱田庄司は古い民衆雑器であるスリップウェアに美を見て、後の益子焼を作るにあたってそのスタイルを応用しました。「流し掛け」という技法です。


現代の益子焼の皿

 作品の下地に化粧土として泥漿を掛けたり、色絵の釉薬を線状に流したりすることで文様を描く技術です。自然の雰囲気が生かされます。実は日本の桃山時代の美濃にもこの技法がありました。かつて私は濱田庄司の遺品であるコレクションの一部が売られたオークションで、彼の愛蔵品の一枚であった桃山美濃の流し掛けの黄瀬戸の小皿を購入しました。それはまさに益子の濱田作品に共通したスタイルでもありました。古今東西の素晴らしい焼き物を研究、調査して、その成果を日本の益子焼に応用したのです。


桃山時代の流し掛け美濃小皿

桃山時代の美濃笠原の流し掛け大鉢

すなわち濱田作品は益子という地域限定の作品ではなく、桃山美濃やイギリスの古き雑器の美の伝統を継承した、自由で、世界規模の作品といえるのです。

 さて私はロンドンの博物館、美術館で一番頻繁に通うのは「大英博物館British Museum」です。ビクトリア&アルバート博物館もそうですが、入場料は無料で、入口などに募金箱を設置して寄付を募ってはいますが、決して強要はしていません。収蔵品の多くは個人の寄贈品です。植民地時代に各地から持ち出されたものも多いことに対する批判もありますが、ここに集められ保管されたことでその後の戦争や信仰の変化による破壊や散逸を逃れ、現在も私達がこうして見ることができる、ということもまた事実です。

 大英博物館の最も有名な収蔵品の一つに、西洋および東洋の古典学と言語学の研究者であったフランス人・シャンポリオンJean-Francois Champollion(1790~1832)が卓越した語学的才能を発揮して解読したロゼッタストーンRosetta Stoneがあります。それを筆頭に素晴らしいエジプト美術が展示されています。さらに私を惹きつけるのはアッシリア美術です。レリーフがその中心ですが、それは見事なコレクションで、先のロゼッタストーンと双璧をなす大英博物館の代表コレクションだと思っています。ここを訪れるたびに必ずこの展示室を巡りますが、飽くことを知りません。


(左)威厳あるアッシリア王の姿
(右)王の馬を引くアッシリア兵

 アッシリアAssyriaは世界史の本をひも解いてみると、紀元前3000年後半から2000年紀にメソポタミアMesopotamia、今のイラクIraqの北に王国を繁栄させた古代王朝の一つです。紀元前668年から同627年に君臨したアシュルバニパルAshurbanipal王の時にエジプトをも傘下に入れた、当時最大の世界帝国に発展しました。


戦車上のアッシリア王の雄姿

 大英博物館にあるレリーフの多くは彼らの王宮を飾っていたもので、アッシリア王の威厳と権力の象徴として制作されたものと考えられます。戦いにおいては常に敵を容赦せず、殲滅しつくすという戦法で臨んだようです。自分に逆らう者は容赦しない、後顧の憂いは残さないという大陸的な考え方なのでしょうか、首を切るどころか眼をえぐり取ったり、生皮を剥いだり、残忍極まりない殺し方を捕虜にしたようです。

 その王国も紀元前612年に残虐性と圧政に耐えかねた周辺の国々の反乱で滅亡しました。新バビロニアBabyloniaの出現からペルシャPersiaの勃興の時代になります。

 こうした時代の背景を考えながら、これらアッシリア・レリーフの数々を見ていると、エジプト・レリーフや彫刻にはない現実性や写実性、非装飾性を感じます。しかもそこには古代ギリシャの美術品、すなわち彫刻や陶器に見られるような理想化され、完成された人間の美や神話性が見られません。本来、動きの激しいはずの勇猛な戦場の様子や戦車からライオンを弓で射る王の姿を見ても、表現に動きは少なく、表情も変化していません。動きの止まった世界とも見えるそれらのレリーフに、かえって威厳と冷静沈着、生命の強さを素朴な力として受けるのです。狩りで矢を受けた瀕死のライオンに、冷静にとどめを刺すアッシリア王の威厳に民衆はひれ伏したのでしょう。ライオンはエジプト社会では王の権威そのものであり、スフィンクスには王とライオンの一体化という神話的、宗教的側面が見えました。しかしアッシリア・レリーフにはそうしたあいまいな考えは見られません。ライオンを狩る静かな緊張感、平然と行われる残虐性と写実性、アッシリア王が絶対無比の存在であり、これが他にないアッシリア・レリーフの魅力ともいえるものなのです。


ライオンにとどめを刺すアッシリア王
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