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インターネット公開文化講座

文化講座

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シリーズ 分かりやすい「わび・さび」 日本美術をより深く理解するための一考察

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

青磁の美しさとその影響

 私が感動した陶磁器作品の一つに、足利義政が愛したという名碗、馬蝗絆(ばこうはん 東京国立博物館・重要美術品)がある。制作年代は南宋時代12世紀から13世紀の龍泉窯作品である。一説によると平氏が中国のお寺に金品を寄進した御礼に向こうから贈られたともいうが定かではない。伝来の経緯は確実にはわからないが、形式、青磁の色合いなどから宋貿易の一環として鎌倉前期から中期頃に日本に持ち込まれた可能性が高い。その後、江戸時代の儒学者、伊藤東涯が著した『馬蝗絆茶甌記』(ばこうはんさおうき)によると、かつて室町時代の将軍、足利義政がこの茶碗を所持していたおり、茶碗の底部にひび割れが生じたため、気に入っていた義政はそれに代わる同じ碗を中国に求めたところ、明時代の中国にはもはやこれだけの出来の良いものは作れないということで、鉄の鎹(かすがい)で割れを止めて送り返してきたといわれている。この鎹を大きな蝗(いなご)に見立てて、馬蝗絆と名づけられたという。
 この青磁碗である俗称「馬蝗絆」は青磁作品の中でも非常に美しいものの一つであると思う。青磁は青瓷(あおし、せいし 瓷は釉薬のかかったやきものという意味の中国語)すなはち当時の青は緑色であるから、緑色の釉薬のかかったやきものということになる。青磁の作品で有名なものはたくさんあるが、大阪東洋陶磁美術館所蔵、旧・安宅コレクションの国宝に指定されている汝官窯の砧(きぬた)青磁水仙盆や元時代の龍泉窯作品・飛青磁徳利があげられる。特に国宝砧青磁は緑というより雨後天晴の色、すなはち、ややブルーがかった美しい色合いをしていて、なんとも高貴な雰囲気を醸し出している。最高の青磁作品は緑とブルーの間の色合いをしている。足利義政は室町時代の最高の美学者であるが、それについては後の「わび・さびの原点をさぐる・日本の庭園」でくわしく述べたいと思う。
 この自然の色合いであるブルーやグリーンのやきものがどのようにして登場してきたのかを考えてみたい。私が持っている南宋時代から元時代の龍泉窯の青磁鉢の底には2尾の魚の文様が貼り付けられて表現されているものがある。

 私はその他にも漢時代の木製漆絵の耳杯を持っているが、その見込みに3尾の魚が回転して描かれている。もともと魚の図柄は紀元前4500年のメソポタミアのサマラ遺跡出土の皿の絵が初現であるが(イラスト1参照)、渦の中に描かれた魚という意味で、あまり宗教的な意味合いはないように思える。ツタンカーメン王の墓からも2尾の魚が描かれた皿が出土している。エジプト独特のファイアンス製(faienceとは淡黄色の繊細な土の上に錫釉をかけた陶器をいう。北イタリアのファエンツァが名称の由来とされる)でブルーの美しい鉢(イラスト2参照)は紀元前15世紀頃の作品という。ツタンカーメン王のものよりやや古い。私はこのブルー色に着目している。


イラスト1


イラスト2

 魚は卵をたくさん産み、ナイル川の中にはその卵を雌の魚の口の中で孵化させて、口中で育てる魚もいると聞く。だんだん大きくなった魚は母親の口から出たり、危険が迫るとまた母親の口中に戻ったりをくり返す。それを見たエジプト人たちは再生と復活のシンボルとして魚を考えるようになったようだ。そこで雄と雌の2尾をファイアンスの皿に描いてツタンカーメン王の再生・復活を願って墓に入れたと考えられる。その魚の絵の入った皿の様式が東洋に伝わり、私の持っている中国・漢時代の漆絵に登場する。

 3尾の魚が描かれるが、3は古来聖なる数といわれ、Ⅲもそのものであるし、3という数字も横にすれば安定した山という字になり、その山の意味するところは前に述べたとおりであるし、またキリスト誕生の折に礼拝した東方の三賢人や、阿弥陀三尊像などの三とも関連していて興味深い。三重塔や五重塔のように奇数で使われる例が多い。七五三のお祝いなどもその流れである。

 中国では更に魚の読み方をユウといい、それは裕福のユウにつながるので縁起がいいということにもなったらしい。今まで述べたことが私の知る限りの双魚文のルーツである。私は先に述べたように、エジプトのファイアンスのブルーが青磁の色合いの原点ではないかと考えている。年代的にみてもペルシャ陶磁器のブルーもその流れであろうし、我が国で青磁が珍重されるのも、その変化した「緑色」ということが重要視されたことは否定出来ないと思う。
 我が国が出会った最初の青磁の作品は、推測するに飛鳥時代から白鳳時代の法隆寺に伝来したと考えられる古越州作品の壺のややオリーブグリーン色がかったいくつかであろう。越州窯は今の上海の南に位置している、中国でも最も古い青磁のふる里であり、中華料理には欠かせない紹興酒のふる里でもある。昔からお酒を入れる器を作る歴史がやきものの歴史にもつながったのであろう。その技術が高まり、後の皇帝、貴族のやきものを作る南宋官窯に発展したと考えられる。その代表が幻の作品といわれた郊檀(こうだん)官窯の作品である。


郊檀官窯作品の貴重な陶片。断面をルーペで詳細に観察すると
青磁の釉薬が3重に掛けられ、色の深みをより一層増していることがわかる。
3回重ねて焼くとはかつてないことである

 日本では須恵器の時代には強還元焔焼成で作品を焼いていたが、奈良後期から平安時代前期あたりに酸化焔焼成に変わってゆく。それは白いやきものである猿投をめざしたためと考えられるが、青磁は還元焔焼成でないと出来ないから、日本では17世紀初頭の初期伊万里をまたないと青磁は出来なかったというのが定説である。しかし美濃の大萱にある弥七田古窯ではほぼ同じ時代に青磁を焼いており、伊万里が先か弥七田が先か断定できないところがある。いずれにしても今後の発掘の成果を待ちたい。
 越州窯の作品の色合いは写真の通りのものであるが、宋時代に美しい色合いに変化する。北宋の徽宗(きそう)皇帝は政治的には無能に近かったが、美に対してはその時代きっての芸術家であり、彼の描いた絵画で、日本伝来の作品は国宝に指定されている程である。また彼は芸術を奨励したため、陶磁器にもすばらしい作品が残されている。その時代の最高の「眼」が育て、選んだ作品が青磁や影青(インチン・青白磁)であった可能性はきわめて高い。長い時間をかけて文化的、経済的に高いレベルに達した北宋において青磁がより高いレベルに達したといえる。それがブルーがかった緑色の高貴な作品であった。


唐時代の越州窯の手付き水注作品。高さ約9センチ

 その中国青磁の美しさに早くから着目したのが日本の文化人であった。作る技術こそなかったが、その美しさを見抜いた。なんとも言えない気品ある美しい自然の深い緑の色合い、そして形。日本を代表する芸術家である足利義政は、この龍泉窯の青磁碗に惚れ込んだ。それはやはり私がこれまで述べてきた日本独自の審美眼、美しい緑、物としては糸魚川上流の姫川流域で採取できる縄文人の愛した翡翠に始まった美しい緑への憧れとも言うべき「日本人の眼」が連綿と継承されていたのである。
 その青磁のブルーグリ-ンは南宋後期から元時代には深い緑色に変化してゆく。それは後に日本の桃山時代に花咲くわび・さびの陶芸「青織部」、すなはち深い緑色のゆがみのある織部陶器に結実する。


左が南宋の龍泉窯の輪花皿。右が南宋から元時代の双魚文鉢。
左がややブルーがかっているのがわかる。
時代が経過するにしたがって右のように緑色を深めてゆく

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