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インターネット公開文化講座

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シリーズ 分かりやすい「わび・さび」 日本美術をより深く理解するための一考察

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

華美から枯淡の世界へ

 前回は我が国の仏教的死生観と西洋と日本の文化の比較を中心に述べ、そこから「わび・さび」の重要な源流の一つを考えた。今回は東大寺大仏開眼で有名な聖武天皇の時代の遺品を収蔵した正倉院の美術とその極彩色の華美な美術世界から抜け出して全く新しい美術のジャンルを作り上げた、いわゆる「国風文化」と、それにともなう新しい美術様式の確立、重要な「わび・さび」の一原点ともいえる純日本的な美術世界のはじまりについて書きたいと思う。

国風文化への道

 聖武天皇の遺品として正倉院に納められた品々である多くの中国の美術品は金、赤、青、緑、黄色など極彩色であり、また当時の僧たちも華やかな衣を身に付けていた。このような華やか過ぎる文化をふるいにかけ、日本文化に合ったものに変えてゆく意志がこの時代に芽生えたのである。白鳳、天平時代の若々しく、伸びやかな仏像の表情や寺院の屋根のすらりとした姿、たとえば東大寺三月堂や唐招提寺金堂の軽やかな外見は、そうした意志の表れでといっていいだろう。飛鳥時代から白鳳時代の法隆寺釈迦三尊のような重々しく厳しい表情から、天平時代の仏像の軽やかですがすがしい表情に変わってゆく。天平の東大寺大仏殿前にある八角灯籠の音声菩薩(下記参照)のやさしい姿はまさにその代表といってよい。

  
やさしい表情の「天平時代の銅跋子(シンバル)を持つ音声菩薩」の拓本

 国力の充実によって、草創時の厳しい状況を乗り越え、大陸文化からの精神的独立へ指向する姿がここにうかがえる。
 唐文化がその頂点を迎え、玄宗皇帝と楊貴妃一族の重用に対する不満から安碌山・史思明の乱(755年から763年)が勃発、以来唐文化は急速に弱体化しつつあった。そうした様子を見ていた菅原道真は894年に遣唐使派遣を中止させた。道真の排除を狙う藤原氏の陰謀で、自分が危険な使節として派遣されることになったために中止に持ち込んだという説やもう唐から学ぶ点はなくなったからという説、大陸とは使節を派遣しなくても交流は頻繁にあったから使節派遣は必要がなくなったという説までさまざまである。
 権力を極めた藤原氏とはどういう一族なのだろうか。藤原氏の祖は天智天皇の側近だった藤原鎌足である。教科書によれば、藤原鎌足は中大兄皇子こと、後の天智天皇の側近とする説が強かったが、壬申の乱で天智の息子、弘文天皇と戦った大海人皇子、後の天武天皇のもとで鎌足の息子の不比等が活躍していることを考えると一概に天智の側近と考えるのは今一度考え直す必要はありそうである。鎌足という人間こそ、古代の日本史における最も重要なキーパースンであり、日本の歴史を東アジア全体の権力バランスの中で作りあげ、また息子の不比等の代で天皇制と藤原氏のあり方を確立するなど、他の豪族とは全く違う、未来に続く権力構図を描いていたように思う。代々娘を天皇の正室、側室に入れ、権謀術策を用いながら娘が生んだ幼子を天皇とすることで、外祖父として権力をつかんだ。天皇家と藤原家は二人三脚、一心同体という方が正しいだろう。ただ自分は表に出ないで、裏方に回り、実は裏で国家権力を牛耳ったという恐るべき権力形態を作りあげたのが藤原氏なのである。それは現代まで続く日本の歴史を貫く背骨のようでもある。
 京都に都した平安時代は、日本史の中で最も雅な日本文化が花咲いた時代である。奈良時代は中国を摸倣した政治・文化の時代であったが、平安時代は日本独自の美意識が芽生えた時代であった。これを一般に「国風文化」と呼んでいる。華美な唐様式を脱して日本的な繊細な世界に向かう重要な時代といって良い。

 こうした変化の時代に定朝という宇治平等院鳳凰堂の本尊、国宝阿弥陀如来像を制作した天才仏師が登場し、唐文化を一層進化させた豊満で静かな表情をもつ日本的仏像の基本形をつくり出した。その後、定朝一派は平安・鎌倉時代の代表的仏師を排出してゆく。鎌倉時代を代表する運慶はこの定朝の6代後の子孫である。運慶とともに有名な快慶もこの一派に属している。
 天皇を補佐する摂政・関白に就き、平安時代の実質的支配者である藤原氏にとって、この世はまさにすべて思うがままであった。その絶頂が藤原道長であった。時はまさに阿弥陀如来が最も信仰された時代で、それはまた末世といわれる時代でもあった。
 末世とは、釈迦の死後、1500年経つと仏教は力を失ってゆくと考えられ、それを末世と呼んだ。仏が力を失うということは、自分たちを守ってくれる仏様がいなくなることであり、極楽に行けない可能性が高まったことを意味している。そのことは藤原氏にとって大変な不安となった。地獄に行ったら、自分たちが抹殺した政治家や貴族が仕返しをすることは間違いない。であるから一層この世だけでなく極楽でも安楽な生活をしたいと望んだ。それは彼ら藤原氏にとってきわめて切実な問題であったに違いない。時はあたかも先に述べた「末世の時代」であり、彼ら藤原氏が待ち望む阿弥陀如来の来迎も、あるいは望みえぬ状況にならないとも限らなかったのであった。
 そこで極楽への道を求めるために、彼らは金品を惜しげもなく使い、寺院の建立、仏像の造像、経塚(末世を前にして、仏教を守る経典などを地下に埋納し、未来に伝えようとした施設)造営や貴重な財貨の寄進などあらゆる功徳と善行を積み、極楽浄土への切符を手にしようとしたのであった。

  
すっきりとした平安時代の八稜鏡に線彫りされた二尊仏(経塚から発見されたもの)
右・表 左・裏(鳳凰が美しい)

 仏教世界にひたり、高い精神的、宗教的なレベルに到達すると、文化的、美術的感覚はますますとぎ澄まされ、それとともに潮が満ちたようにきわめて美的感性の優れた作品が次々に生み出された。日本の古典を代表する「伊勢物語」、「源氏物語」、「枕草子」、「古今和歌集」、和歌の六歌仙などの文学、「源氏物語絵巻」、「鳥獣戯画」、書、経典、定朝一派の仏像、愛知県猿投窯を中心とした地域で焼かれた陶器、常滑や渥美などに、その時代の代表的美的世界が創造されていった。特に猿投というやきものでは釉薬というものが人工的に掛けられる「施釉」が日本で初めて作られるところで、陶磁器の歴史からみてもきわめて重要な窯場である。この猿投のやきものにおける「わび・さび」については次回に詳しくお話したい。

華美から枯淡の美へ

 また平安時代を代表する文学である源氏物語の一節に光源氏が秋の深まったはるかな野に分け入る光景が描かれており、そこに「あはれ」すなわち趣深いという意味の言葉が使われている。この「あはれ」の感覚は古今集や新古今集などの和歌にも顕著であり、まさに平安時代というものを一言で表現する重要な言葉ではないかと思われる。
 光源氏が秋の深まった野に分け入ると、そこはとても「趣深い世界だった」という感覚。
 秋の枯れた草花の世界を趣深い「あはれ」と表現した紫式部や清少納言は、平安時代を代表する知識人、文化人としての最高に優れた鋭い感覚、感性を持っていた。
 また平安時代後期の渥美古窯の作品「秋草文壺」は中世古窯作品として唯一国宝に指定されている貴重な壺である。そこには秋草がみごとに線描きされており、「源氏物語絵巻」の各所に描かれている秋草の世界を彷彿とさせる。余分な部分、唐文化の極彩色ともいえる華美過ぎる部分を削ぎ落としてゆくと、洗練された美意識のエッセンスだけが残る。それが秋草の姿といえる。まさにこれらの作品の中核を形成している「国風文化」そのものといえる。

  
平安の珠洲古窯最初期の作品「連弁文四耳壺」

 秋草はまさに枯れて消滅する寸前の美。花は華やかに咲いたとき、誰でもが美しいと感じる。しかし、桜の散りぎわの美しさのように、人生の華やかさとはかなさ、そしてそれゆえの哀しみ。すすきのように枯れてゆく姿に貴族は自分の姿をオーバーラップさせ、武士の台頭と死を予感するかのような仏教的諦念の世界に美を見いだした。四季のうつろいのように、自然のいとなみそのものに普遍的美を見いだす意識、これこそが、華やかさと表裏一体の静謐の世界であり、平安文化の粋ともいえる「あはれ」なる美的世界なのである。
 自然に生まれ、自然に戻るという死生観がここにも反映されている。


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