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シリーズ 分かりやすい「わび・さび」 日本美術をより深く理解するための一考察

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

わび・さび研究 12回目(最終回)


志野作品の中でも、最も「わび」ている鼠志野草文向付(桃山時代)

 この連載も早いもので、最終回となった。
 「わび・さび」については昔から興味を持ち、それの持つ独自の世界について一度まとめてみたいと思っていたが、ここに12回連載という形でそれが実現できたことに感謝したい。
今後も新たなる発見があれば、またこの場を借りて述べてみたいと 思っている。


鼠志野の名品といわれる草花文四方向付(桃山時代)

 さて茶碗や茶道具のわび・さびについては、前前回に書き、前回は「黄金の茶室」の「わび・さび性」について書いた。今回は茶道に携わった多くの人たち、すなはち茶人達の共通した生き方について考えてみよう。茶道は日本芸術の集大成といわれ、あらゆる芸術世界が集約されている。集大成されたということは、そこに日本の芸術のすべてが組み込まれた総合芸術ということに他ならない。
 芸術とは何か。それは職人技とは正反対の世界であり、職人技が依頼主の要望に忠実に、しかも最高レベルの技でそれを実現することであることに比べ、芸術は先人達の築き上げてきた普遍的世界観の上に立ち、更にそこに自己の目指す世界を自らの技で構築し、それを自己の革新的考察の中でよりすぐれたものに進化させてゆくことにその最大の特徴がある。すなはち常にそれまでの先人のなした世界とは違う独自性を模索し、新しい方向性と進化したよりすぐれた革新的アイデアを持って挑戦する「個性」のことをいう。


織部扇面草文向付(桃山時代後期~江戸初期)

 茶室は建築であり、路地や庭は造園、そこには禅寺にみる枯れ山水の庭あり、石組みの妙が演出されている。また茶室の床の間には可憐な花が活けられ、自然との一体感をみせる。床の間には茶掛けがかかり、四季折々の絵画世界が客の眼を楽しませる。もちろんメインは茶碗であり、その茶碗は焼きものであり、微妙な変化によって、味わい、見どころ、景色になり評価も大きく変わる。その茶碗の持っている味わいによって、会席料理までのすべての道具立てが決まる。茶会はそうした意味で、総合コーディネートされた世界であり、亭主は客を送り出すまでのすべてを演出しなければならない。そこには新しい試み、新しい方向性があることが望ましい。どのようにしたら客は喜ぶか、最初から最後まで誠意を込めて接待する。自分の大切なお客さまには是非自分のできる限りのおもてなしをして差し上げたいと心から願う、その心が茶の精神なのである。
それが「一期一会の茶会」といわれるゆえんである。合戦に明け暮れる武将にとって「明日」は果たして来るかわからない。そうした張り詰めた日常において、真心のこもった「一期一会の茶会」すなはち今流に言えば、人間の生には限りがあるゆえに、人は今会ったこの一時を最期と想い、その瞬間をベストを尽くして生き切ればそれが永遠ということにつながるというこの考えは、武士の心に去来するさまざまな迷いを払拭してくれる格好の覚悟を得る場となったことであろう。「死」と向き合ったとき初めて「生」の短さを思うという。平安の貴公子、在原業平は死に床でこう時世の歌を詠んだという。
「ついにゆく 道とはかねてききしかど きのうきょうとはおもはざりしを」
(訳してみると、人間が最期に行く「死」という道についてはかねてから聞いてはいたけれど、こんなに早く自分の死が訪れるとは思わなかったことだ)しかし業平が自分の人生がかくも短かったと嘆くことは、それだけ業平の人生は充実した、楽しい人生であったからともいえるのである。苦しいと思う人生は長く感じる。真剣に生きる、楽しく生きる。その時間はすぐ終わる。これが人生である。その瞬間をベストを尽くして生き切ればそれが永遠ということにつながるということは、そういうことである。


青織部燭台(桃山時代)

 武野紹鴎の有名な「侘びの文」の中に
 「侘びということ葉は、故人も色々に歌にも詠じけれ共、ちかくは、正直に慎み深くおごらぬさまを侘びと云う」と書き残している。

 これはもう「茶の精神」というより道徳律といえるものである。正直で、慎み深く、おごらぬ様はひとつの生き方のありようである。おごらぬという姿勢も「わび・さび」の一環といえる。
 ある道徳律を目指すということは、その当時は一般的に道徳的ではなかったということを示しているともいえる訳である。その反対が、虚言癖であり、驕り高ぶり、傲慢不遜ということになる。あえていうなら利休にとって、それが秀吉ということになるのであろうか。芸術家は世の動きとは関わりなく反対の世界に身を置くことが多い。足利義政、一休禅師、村田珠光、千利休、古田織部、本阿弥光悦などなど。義政は父を家来に殺され、自分も将軍とは名ばかりで誰も従うものはいなく、孤独の中、芸術に埋没した、一休も批判精神は旺盛で、反骨を貫いた、村田珠光も義政や一休を師と仰いだ。利休は秀吉から死を賜り、織部も家康から「国家反逆罪」を理由に死を賜った。光悦は家康によって先祖伝来の地である京都の中心地から、遥か田舎の鷹峯に追放された。
 芸術家は世の中と同じことをしていては、芸術家たり得ない。そうした点で世の中と逆の世界を歩む宿命を背負っているといえる。そのことは時代に反抗することに繋がり、権力者と対立しやすい。感性の良さは頭脳の明晰さそのものであり、その芸術家の頭脳の切れ味に権力者は危険と嫉妬を感じる。時代を読む感性の良さ、そのすぐれた感性は批判精神につながり、それがとりもなおさず芸術家の本質であると同時に、また自分の死を早める原因にもなるという諸刃の剣なのである。インテリゲンチャの傾向はどうしても「反権力」ということに向かいやすい。
 「わび・さび」というものはそうした危険性を常に背面に孕んでいるのである。


青織部酒注ぎ(桃山時代・懐石での汁注ぎともいわれるが、これはやや小型なので、酒注ぎと考えられる)

わび・さびのまとめ

  • 1 日本人は縄文時代以降、深い森、山、自然の中に暮らしてきた。四季の移ろいや季節の微妙な変化に敏感である。自然との一体感が精神的安定感ともなる。
  • 2 仏教が伝来し、そこに「空」という哲学的概念が持ち込まれた。般若心経である。すなはち、すべての物体は「空」、変化するということから、無常観が芽生え、1で述べた自然観とともに移ろいやすさ、変化という真理に目覚めた。石より木への傾斜。
  • 3 奈良時代にお茶は僧侶の健康飲料として中国から伝わった。
  • 4 そのお茶がサロンの知的遊びに進化し、茶の産地を言い当てる「闘茶」としてもてはやされ、茶への興味が大きくなっていった。
  • 5 茶そのものからさらに茶を喫する入れ物、茶碗への興味へ移っていった。
  • 6 美しいもの、美しい世界への飽くなき探求から、美の概念の変化、古びの美への傾斜が見られるようになった。
  • 7 日常とは反対の概念、対立する概念、すなはち白黒、陰陽、明暗、日月、虚実などの概念から、未使用と使用されたもの、無傷のものと傷だらけのもの、滅するものへの哀惜という反対の世界に人々の成熟した眼が向くようになった。反対の「美」、使用されて来た物への愛着などへの興味が急速に台頭した。それは「変化」という仏教的真理の過程の美の発見であった。
  • 8 「美の世界」と「政治の世界」の合一が信長時代の茶道であり、その相対の宿命は秀吉時代の茶道の歴史であった。わび・さびは反権力の縮図ともなった。
  • 9 家康の「士農工商」という身分制社会確立とともに、商人茶道は衰退し、武家茶道として発展した。それにともなって、美濃茶陶が衰退した。小堀遠州により「わび・さび」は「きれいさび」として武家茶道に受け継がれた。

 こうして茶道も変化して時代の荒波を越えてきた。この日本独自の「わび・さび」はいまだに愛好者は多く、一部の文化水準の高い外国人達をして、わびさび文化は世界に類例を見ない、誇るべき文化であるという、新たな1ペイジを加えようという動きにもなってきている。

次回からのお知らせ
年内は「骨董なんでも相談室」
来年からは「西洋アンティーク紀行」を12回連載いたします。


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