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インターネット公開文化講座

文化講座

インターネット公開文化講座

シリーズ 骨董をもう少し深く楽しみましょう

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

古美術の背景を歩く エジプト・カルナック神殿を訪ねる


月夜に浮かびあがるカルナック神殿

 インターネットの発達が世界の独裁政治のベールをはぎ取り、真の姿を民衆にさらけ出し、見せつけてきている。古き秘密主義の独裁政治の時代は終焉をとげ、民衆中心の本来のひらかれた政治の姿になりつつあるようだ。現在のエジプトもその例外ではなく、状勢も大きく変わりつつある。私は2年半前にエジプトを訪問して、重要な遺跡を中心に見てきた。再度訪問して詳細に研究したいこと、確認したいことも沢山でてきたが、エジプトが生まれ変わる時であれば延期もやむをえないところである。

 さて今回はエジプト最大の神殿といわれる「カルナック神殿」(Karnak Temple、Temple of Karnak)を訪ねた時のことを書いてみたいと思う。
 その前に私は本講座の中で、過去に何回かエジプトのことを書いてきたが、ここで少しその確認、復習をしてみたい。
 まず「エジプトの美術と宗教の魅力」というタイトルで日本の仏教、特に阿弥陀信仰とエジプトの宗教が極めて類似しているということを指摘した。ナイル川がいわゆる三途の川で、閻魔大王が冥界を支配するオシリス神であること、死者は生者(ナイル川の東岸に住んだ)の国である日の出の東岸側から、死ぬと三途の川であるナイルを渡り、日の沈む死者の国である西岸におもむく(墓はすべてナイルの西岸側につくられた)。そこでオシリス神による裁判があり、生前の行いによって極楽と地獄行きに分けられる。きわめて日本の阿弥陀信仰、閻魔大王、地獄・極楽の思想とエジプトの信仰が酷似している点をあげた。古王国時代のエジプトの宗教を調べたところ、「西に住むものたち(死者)の第一人者」という名のケンティ・アメンティウ神は後に冥界を支配するオシリス神に同化するので、日本へはこのアメンティウが訛ってアミティウ、さらにアミダ(阿弥陀・西の死の国を司る主)になり、伝えられたと私は考えている。


ナイル川の夕日
(夕日は西に落ち、そこはオシリス神が支配する死者の国である)

 また「ツタンカーメン王のジュエリーの魅力」「仏教とエジプト美術」において蓮と香の問題をとりあげた。仏教では蓮の花がシンボル的な象徴になっているが、それもエジプトでは死者を供養するときに捧げる重要な花なのである。香を焚くこともエジプトでは神殿を中心に盛んに行われていた。日本の飛鳥時代から法隆寺に伝来する「柄香炉」も、もともとエジプトで使っていた形そのものである。
 それから今回のカルナック神殿にもある「オベリスク」。これは太陽信仰の影響で成立した王の顕彰碑であると考えられるが、神殿の塔門の前に建てられている。形式的には諏訪大社の御柱とよく似ていることを指摘した。研究の余地があるが、私は以前から神社の鳥居は、このエジプトの神殿の塔門がルーツではないかと思っている。聖なる神殿の入り口、結界のシンボルである鳥居、鳥が居るという表現もおもしろい。まさに鳥は古代エジプトにおいて死者の魂を正確にあの世に運ぶ聖なる鳥(バーという)として古くから崇められていた事実があり、重要なハヤブサ神であるホルス神も塔門壁面に描かれている。まさに鳥居である。ギリシャ神話のプシケという蝶も同じであるが、これらは宗教的に重要な動物たちといえる。


塔門とオベリスク 神殿遠望

 諏訪大社の御柱も上が鋭く削られて尖っている。オベリスクはギリシャ語に由来し、「針」、「小さな串」を意味している。四角錐で、最上部が更に鋭くピラミッド状に尖っている点も御柱ときわめて似ている。オベリスクは太陽信仰とも深く関連があり、神社神道の太陽神である天照大神(あまてらすおおみかみ)との関係から考えても興味深いものがある。

 さらにミイラの考え方も、おそらく奥州平泉の藤原氏の墓所である金色堂に眠る四代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)の王たちの遺骸と似ている。特に秀衡と考えられるミイラは日本の風土を考えれば奇跡的ともいえる保存状態である。詳細な調査は行われていないが、何らかの防腐処理がなされていることは間違いないだろう。
 エジプトにおいて死は霊魂と肉体の分離と考えられ、空中を浮遊する霊魂はいつか肉体に戻ると考えられてきた。それが復活・再生という考え方である。であるから遺骸は絶対腐らせることなく残しておかないといけない。遺骸がないと再生・復活ができなくなるからである。本来のミイラの思想からかどうかは分からないが、弘法大師空海を入れると、これは日本に18例がある。
 中国の漢時代の馬王堆(まおうたい)遺跡から発掘された女性の遺体は、紀元前186年に亡くなっているが、驚くべきことに、発掘当時、遺体に触ると肌の弾力を失っていなかったと言う。2200年もの間、夏は40度を超える暑さの大地の中で驚異的なことといえる。エジプトは更に古いのである。

 今回のカルナック神殿の話をするにしても、「死」ということをどう考えるかということが非常に重要なことといえる。
 この神殿の位置も重要である。首都カイロからナイル川を600kmさかのぼった東岸に位置し、新王国時代に繁栄した首都テーベ(現在のルクソールとその近辺)に建てられた。前に述べたように、ナイル川をへだてた死の国である西岸の、カルナック神殿の真向かい正面方向には歴代の王たちが眠る「王家の谷」や貴族の墓をのぞむ。飛鳥藤原京の中心、朱雀大路の延長線に天皇陵すなわち天武・持統陵、文武天皇陵さらに菖蒲池古墳群、高松塚などとの関係、俗に「聖なるライン」などといわれる関係の原点がエジプトのカルナック神殿と王家の谷との関係と同じ発想といえるのではないか。
 王家の谷は姿かたちからもピラミッドの原型とも考えられる再生・復活の母なる山、アル・クルンの麓にいだかれて造営されている。これも重要な事実だ。カルナック神殿の約500m四方の神域には歴代の王が関与して増改築を重ねた巨大な複合施設があり、紀元前2000年から建設が始まり、中心はアメン大神殿となっている。アメン神=空気の神、「隠れた者」とは何か。一説によるとアメン神は豊饒豊かさの神ともされている。


王家の谷から見上げると、ピラミッドの原点と考えられる
母なる聖山・アル・クルンの麓に造営されていることがわかる。

 「エジプトはナイルの賜物」とは歴史の父、ヘロドトスの言葉であるが、まさにエジプトはナイルを中心とした農業国であり、豊饒の神はエジプトにおいて最高神としての資格を備えている。また第一塔門の前には、40体の牡羊の頭を持ったスフィンクスが並ぶ参道がある。普通のスフィンクスは人頭ライオン身であり、ここではなぜ人の頭ではなく羊の頭なのかというと、アメン神殿の守り神(神獣)が羊だからである。周辺のスフィンクスを数えると恐ろしい程の数のスフィンクスである。それほどしっかり守らねばならないアメン神とはもともと土地の神(豊饒の神)であったが、太陽神ラーと結合してアメン・ラー(太陽と豊饒の神)となり、この時代の最高の神になった。ムート神はその妻といわれ、カルナック神殿から南に2.5Km離れたところに偉大なルクソール神殿があるが、これはアメン神の妻ムート神を祀った神殿なのである。カルナックからルクソール神殿に通じる道にも牡羊の頭のスフィンクスが列をなして守っている。


カルナック神殿参道に並ぶ牡羊頭のスフィンクス群

 カルナック神殿の最大の見どころは列柱室である。開花パピルス柱(柱の上が開花状になっている石柱で、パピルスの茎と花のイメージで作られたという)が中央に12本、未開花パピルス柱(柱の上がつぼみ状になっている石柱)が122本ある。高さ約15m、石柱の周りはほぼ大人10人が手をつないでようやく抱えられる大きさである。ここに立つと周囲の巨大な柱に押しつぶされそうである。これだけ間隔を狭く建てた理由はいったい何であったのだろうかという疑問がわく。まさに不思議な巨大石柱群である。柱には王、王妃、神のレリーフ、ヒエログリフ(神聖文字)、カルトゥーシュ(王の名前をヒエログリフで記し、王家の枠で囲ったもの)でビッシリと埋め尽くされている。太い石の柱が狭い場所に134本も建てられているのである。過去の偉大な王たちは神々に比せられる。そしてその神々の子孫である当時を中心とした王たちも神々なのである。そうした血筋と権威をよりいっそう誇示する場所がこうした神殿であったのではないか。
 石の概念は永遠そのものであり、その「永遠」はまた死後そのものでもある。そしてそれはまた死から命を再生させる霊力をもった存在でもあったのではないか。この時代の「石棺」がその最たるものであろう。石の棺に入り、永遠の眠りにつく。そして復活する。日本の古代から古墳時代においてもその影響を受けている。西洋ではその伝統は今も引き継がれている。また高貴で美しい石は宝石とよばれ、ファラオはそれを身につけ、自分を悪霊から守った。中国の古代の王たちも「白玉」などで悪霊から自分を守った。王が首からさげた石、それが王に点で玉という漢字になったという。それは後には宝飾品となるが、かつては王を守る護符であったのだ。
 世界の四大文明はすべて大河を中心に成立した農業文明である。そこに成立した「王権」、「王」というものの役割は、初期においては豊饒すなわち食料の確保であったと考えられる。これは中国の古代社会の王たちも同様であったようだ。すなはち自然(多くは風水害。そのため治水の神である蛇を祀った)から民を守り、外敵からも民を守る。そして彼らが働くことの出来る環境を守る、それが豊饒を獲得できる王の力、すなわち神の力でもあった。そのパワーをいつまでも持続したい、それができるかが王たるものの君臨できる期間とも考えられる。
 アメン神は「隠れた自然の神々」ともいわれる。その隠れた豊饒の神々に祈ること、そしてそれらの神々に同化できるように祈る大切な場所、それが神殿の存在意味であり、王すなわちファラオたちの願いでもあったのではないか。


間隔の狭い巨大な列柱群に圧倒される

 列柱室から外に出ると、オベリスクが二本空にそそり建っている。神殿の両脇に太陽の象徴として建てられた。このオベリスクが巨大な一本岩から切り出されたのは、以前に書いたアスワンの石切場からである。かつては周辺に4本のオベリスクが建っていたが、一本は折れて側に展示されている。一本は東ローマ帝国の旧都、東西交流の要衝であった現在のトルコ共和国のイスタンブール、かつてのコンスタンチノープルに4世紀頃に持ち出されたという。現在のイスタンブールのブルーモスクの近くの競技場遺跡にそのオベリスクが建っている。カルナック神殿での一番大きなオベリスクはハトシェプスト女王のもので、29.5メートル、重量は320トンという、とてつもないものである。

 有名な葬祭殿を作った女王ハトシェプストは、トトメス2世の妃であったが、王が死ぬとまだ幼かった義理の息子のトトメス3世(後にエジプトを強大な王国にした)の摂政となり、権力を掌握して、後にファラオとなり、驚くべきことにファラオのシンボルである付け髭をつけ、男装して現れたという。そのため本来、王として即位すべきトトメス3世は大きく即位が遅れたため、彼はハトシェプストを憎み、彼女の死後、神殿の彼女の名前や姿を彫ったレリーフ、肖像を削り取ったという。いかに彼女への恨みが大きかったか推測できる。オベリスク建設当時は金と銀の合金とされるエレクトラムで全体が覆われ、燦然と四方に輝きを放っていたという。上から一行ヒエログリフが書かれ、現存するオベリスクでは最大であり、かつまたシンプルで美しい。


美しいオベリスク
右がハトシェプストのオベリスクであるが、実際は左より大きい。

 裏の方に巨大な「聖なる池」と呼ばれる池がある。ここは古代の神官達が身を清めたりする神聖な儀式に使った池と伝えられる。日本には宗教にかかわる四角い池の類例はないが、水の儀式は飛鳥時代にあったようで、遺跡からも発掘されている。そこからはエジプトと同じ形の石製品が発見されている。さらには神社や寺などの瓢簞池などにその面影が伺えるかもしれない。平安時代の浄土式庭園、建物や都に南面する池や湖に陰陽道の影響を見てとれるが、そのルーツにエジプトの宗教観が影響している可能性も否定出来ない。日本では滝で身を清めるという山岳信仰的な方向性を持ってゆくようだが、このカルナック神殿の四角い池と同じものがカンボジアのアンコール・ワット遺跡にあることを発見して、私は大いに驚いたことがあった。これもはるか遠くのアジアに伝わったエジプト神殿の影響とみられる宗教施設といえる。


左:カルナック神殿の聖なる池 と 右:アンコール・ワット遺跡の聖なる池

 アンコール遺跡の中の私の最も好む廃墟遺跡、タ・プロームで、池にエジプトの蓮が綺麗に咲いていたことも印象深い思い出である。
 カルナック神殿のその聖なる池の前にはスカラベ(フンコロガシの一種)の石像がある。糞玉を転がすその姿を、太陽が東から出て西へ沈む運行をくり返すことにたとえ、再生復活と重ね合わせて聖なる生き物としたようだ。

 このようにカルナック神殿はエジプト最大の宗教施設としての建築であり、芸術的にも美術史的にも最も意義深く、重要なもので、人類の残した比類ない石造建築遺跡といえる。恐らくピラミッドの原点と考えられる王家の谷を見下ろす母なるアル・クルン山と先祖の王墓を遙拝するこのカルナック神殿で、最高神であるアメン・ラーに国の行く末と豊饒、豊かさを祈り、全宇宙的な世界観の中で国家と彼ら王族、神官たちの繁栄を日々祈ったことであろう。
 細部を検証するとまだまだ論じ足りないところがあるが、紙面ははるかにオーバーしており、またの機会に譲り、この辺りで筆を置くことにしたい。


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