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インターネット公開文化講座

文化講座

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シリーズ 骨董をもう少し深く楽しみましょう

日本骨董学院・学院長
東洋陶磁学会・会員
日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男

古美術をみる眼1 「神々の聖地 出雲・伯耆の弥生遺跡」

私はいま山陰を旅しています。古き神々を祀る神社や遺跡がたくさんあります。また鎌倉時代には幕府転覆をはかって失敗し、承久の乱の責任をとって後鳥羽上皇は京の都から遥か離れた隠岐に流罪になり、そこで薨去されましたが、その折りに御番鍛冶制度をつくり、時の各地の名刀工を召され、彼らを助手に当代一流の刀剣を打ち、孤独な自分を鼓舞してきました。また古代神話のふるさとにふさわしい数々の話が出雲には伝わってます。今回のメインテーマである弥生遺跡や358本の銅矛と6個の銅鐸が発見された荒神谷遺跡、法隆寺と同じころ、白鳳期の天部(仏壇の方位を守る武人像)の絵の入った壁画片が出土した大淀廃寺などがあります。出雲から伯耆、丹後、若狭は地中海文化がシルクロードを経て中国、朝鮮から日本に入るとき、重要な航路上の目標になったのです。それが隠岐の島であり、そこから一際高くそびえる大山(だいせん)を目指して船を進めたのでしょう。いま「ゲゲゲの鬼太郎」で賑わう境港市あたりから島根半島、出雲に上陸したシルクロード・大陸文化は列島を縦断して吉備地方、今の岡山から都に文化を伝えました。更に伯耆の国から北上して丹後半島を回り込み、若狭に上陸するグループもありました。彼らは若狭から長浜、琵琶湖、大津経由で明日香や奈良、平安時代なら平安京すなはち京都に貴重な文化が伝えられたのです。大山のふもと、古き伯耆の国に到着した文化はその地方にも定着し、潤しましたが、陸路でさらに吉備、現在の岡山地方経由で明日香や奈良に伝えられたのです。

こうした大山の地域に弥生時代の重要な遺跡である「妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)」があります。弥生時代に大陸文化はすでに日本に伝えられ、いわゆる縄文土器に続く弥生土器の成立を見ます。私はその姿にエーゲ海を中心に栄えたギリシャ美術の影響、合理的な美しさを強く見ます。さらに死者を埋葬した墓の形態に、わが国に珍しい高さは低いけど「四隅突出型墳丘墓」をみることができます。

稲作文化の萌芽期は、現在では縄文後期とされています。弥生時代の始まりが紀元前8世紀に引き上げられたことは前にも述べましたが、それによって縄文時代晩期に大きな世界的な気候変動、すなはち寒冷化があったのではないかと考えられるようになりました。自然採集生活が寒冷化によって衰退して、栽培、すなはち自分達で食料を安定確保しやすい農業が始まったのです。文化そのものが大きく転換する時代を迎えます。稲作は多くの土地を必要としますから、土地争いに発展し、ついには邑と邑、国と国の戦争になります。九州の吉野ヶ里遺跡などのお墓からは鏃(やじり)がたくさん胸に刺さったままの遺体が発見されています。首のない遺体もあります。頭や腕が剣で切られた遺体もあります。すなはち大規模な戦争の結果、亡くなった方々の遺体であると想像されます。

さて戦いには優秀な指導者が必要であり、訓練された兵隊達が登場します。階級制度もできてきます。社会が戦争を想定した三角形型のいわゆるピラミッド構造になってきます。そこに大陸からの文化や優秀な人達がやってきて、新たな文化を形成していったと考えられます。宗教と政治、軍事と文化が新しい方向に向かう時代、それが弥生時代であるといえます。日本列島はのどかな自然の中での生活に終わりを告げます。

写真にあります弥生壺は私の自宅に飾ってあるものです。縄文の壺と比べると、合理的であり、形の美しさははるかにのびやかです。ギリシャ、エーゲ海を中心とした地中海様式の、ある明るさを感じさせる造形です。縄文の壺にはものすごい「うねりと土着的な情熱」を感じさせますが、弥生の壺は合理的で、左右対称ですっきりした造形を誇っています。この美しさは現代にもつながる造形です。写真にあります「四隅突出型墳丘墓」も規模は違いますがエジプトのピラミッドないしは秦の始皇帝のピラミッド型墳墓と似ています。この妻木晩田遺跡の「四隅突出型墳丘墓」の形も独特であり、後の前方後円墳と大きく違います。いずれこの形の違いにもチャレンジしてみたいと思います。

このように弥生時代は変化に富んだ時代であり、外国からも多くの先進文化がやってきた時代といえます。それだけに非常におもしろい時代であり、興味をそそられる時代といえるのです。


穀物などを貯蔵したと考えられる高床式建物


四隅突出型墳丘墓


著者の部屋にかざってある弥生土器のおおらかな大型壷。
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